「しばかり」の意味おわかりですか?
吉海 直人(日本語日本文学科 特任教授)
みなさん、昔話の「桃太郎」はよくご存じですよね。ご承知のように「桃太郎」の冒頭は、
むかしむかしあるところにおじいさんとおばあさんがいました。おじいさんは山へしばかりに、おばあさんは川へせんたくにいきました。
となっています。この中に出てくる「しばかり」が、今の若い人にはもはや通じません。授業で学生に意味を尋ねたところ、ほとんど「芝刈り」のことという答えが返ってきました。じゃあ、おじいさんは何のために山へ行ったの。芝を刈ってどうするの。まさかゴルフ場のアルバイトじゃないよね。こんな笑い話のようなやり取りが、現在の大学の授業の現実なのです。
おそらく学生の祖父母ならば、正解率はもっと高いでしょう。「しばかり」とはもちろん「柴刈り」、つまり落ちている枯れ枝を拾い集めることです。現在ではどこの家庭にも電気やガスが備わっているので、昔のように小枝を燃料にすることはなくなりました。そのため「柴」という漢字が生活から乖離してしまい、代わって身近なゴルフ場やサッカー場などに植えられている「芝」の方が一般的になってしまったようです。
もちろん日本に「芝」が植えられたのは、そんなに古いことではありません。明治に至っても、しばらくはかまどで煮炊きしていました。どこの家庭でも、燃料としての柴や薪・炭が必需品だったのです。京都の大原女は柴売りでした。そのため町や村の周辺の雑木は、人々の生活のために消費されていたのです。二宮金次郎が背中に背負っているのも柴ですね。
多少の落ちた枯れ枝を集めるくらいでは済みません。木は切り倒され、薪や炭の原料にされました。その頃の京都など、周囲の山々の雑木は絶好の燃料でした。だからこそお盆の大文字にしても、今よりずっと見晴らしがよかったのです。ところが電気やガスの供給が普及すると、もはや雑木を使わなくても済むようになりました。するとたちまち樹木が成長してしまい、そのため京都の大文字も昔に比べると見えにくくなってしまったとのことです。もはや「薪炭」も死語化しています。
話を「柴刈り」に戻しましょう。最近の若い人は「柴」を知らないどころか、キャンプの飯盒炊飯も未経験ですよね。そのうちマッチが火をつける道具であることも忘れられてしまいそうです。それはさておき、おじいさんは何故山に柴刈りに行ったのでしょうか。そう考えると、かぐや姫(竹取物語)のおじいさんと共通していることに気づきます。
どうやらおじいさんは、農作物を生産するための田んぼや畑を所有していないようなのです。竹にしても柴にしても、誰でも手に入れることのできる共有物でした。竹の場合は細工を施して、籠などを編むことで商品として売れます。これは笠地蔵のおじいさんとも共通します。それに対して柴は、もちろん自前の燃料でもあるのでしょうが、それでは生活費が稼げないので、おじいさんは柴を束ねて大原女のように売りさばいていたのではないでしょうか。
よくよく考えると、昔話のおじいさんおばあさんは、ほとんどそういった設定がなされていますよね。しかもその多くは、外に出ているおじいさんが何かを見つけてくるのですが、桃太郎の場合はちょっと特殊で、川へ洗濯にいったおばあさんが、川上から流れてくる大きな桃を発見します(向こうから近づいてきます)。
川上(神の領域)から流れてくるということでは、花咲かじいさんも共通しています。こちらは白(ポチ)という子犬が川上から流れてきます。中には流れてきた桃が犬に変身する話もあるので、両話はかなり近いといえます(犬の登場も共通しています)。
なお桃太郎には地域によっていくつかのパターンがあります。すんなりおばあさんが桃を手にするものが多いのですが、中には川が大きくて手が届かないという設定になっているものもあります。その場合、たとえば「うちの桃ならこっちこい、よその桃ならあっちいけ」と桃に問いかけたところ、桃がおばあさんのところにすっと寄ってきたという話もあります。またおばあさんが「あっちの水は辛いぞ、こっちの水は甘いぞ」と歌いかけて、桃をこちらに引き寄せるパターンもあります。ただしこれだと「ほたるこい」という歌のパクリなので、さほど古いものではなさそうです。
日本の昔話にはこういったネタが豊富に含まれているので、是非読み直してみてください。きっと新たな発見がありますよ。
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