藤原道長は「三郎」か?―大河ドラマ「光る君へ」第1回を見て

2024/01/09

吉海 直人(日本語日本文学科 特任教授)

 

令和6年1月7日、いよいよ大河ドラマ「光る君へ」が始まりました。
第1回とあって、期待してご覧になった方も多かったかと思います。もともと『源氏物語』という作品にはほとんど触れないとのことだったので、私を含めて研究者の多くはがっかりして見たに違いありません。
さてその感想ですが、第1回の一番の衝撃は、粗暴な道兼にまひろの母が刺し殺されるシーンでした。
紫式部の母は幼い頃に亡くなったとされているだけで、その死因にまでは言及されていませんでした。それを逆手にとっての大石静さんの創作だったのでしょう。平和で戦争のなかったとされる平安時代の幻想が最初から崩されてしまいました。もちろん大きな戦はありませんでしたが、平安時代にも裏社会がなかったわけではありません。おそらくこれからもこういったシーンがたびたび挿入されるのでしょう。ですからこれについて異議申し立てをしても仕方ありません。

私が妙に引っかかったのは別のところです。それは何かというと、道長のことを「三郎」と呼んでいたことでした。みなさんはいかがでしたか。もちろん兼家の妻時姫には道隆・道兼・道長と男の子が三人生まれているので、生まれた順に太郎・次郎・三郎としても問題ないように思えますよね。ところが当時はいわゆる一夫多妻制だったので、よその妻にも男の子が生まれていました。その場合、妻ごとに長男・次男とするのでしょうか。どうもそうではなかったようです。妻ごとに決めるるのではなく、兼家の息子として、母が誰かとは関係なく、生まれた順に長男・次男と認定していたようなのです。

その代表例が『蜻蛉日記』でお馴染みの道綱です。兼家は道綱母のところにも通っており、道綱が誕生しました。この道綱は年齢順でいうと道隆の次になります。つまり道綱は兼家の二男なのです。それ以外の妻から四男道義が生まれているので、道長は兼家の五男とされているのです(さらに六男の兼俊もいます)。その五男の道長を三郎と命名しているのが気になったというわけです。果たして道長が三郎と呼ばれていたという資料はあるのでしょうか。それともこれも大石さんの創作なのでしょうか。
もっともこの時代、正妻と妾妻では子供の元服後の昇進のスピードが違いました。正妻(嫡妻)腹の道隆・道兼・道長は摂関として位人身を極めますが、妾妻腹の道綱や道義は大臣にもなれません。たとえ兄であっても、弟に追い越されて差を広げられてしまうのです。

同様のことは道長の二人の妻の子供達の間にも生じています。時姫や道綱母といった兼家の妻たちは、たいして身分の高い家柄の女性ではありませんでしたが、道長の妻は方や左大臣源雅信の娘倫子であり、方や左大臣源高明の娘明子でした。この場合、身分的には拮抗しているので、どちらが正妻かはすぐには判断できません。ただし子供たちのその後の昇進を見ると、明らかに倫子腹の方が優遇されていることがわかります。

倫子の子としては彰子・頼通・妍子・教通・威子・嬉子がいます。それに対して明子は頼宗・顕信・能信・寛子・尊子・長家を儲けています。特筆すべきは娘の入内先でしょう。彰子は一条天皇、妍子は三条天皇、威子は後一条天皇に入内し、三人とも后になっています。三后を道長の娘が占めたことで、道長の栄華が保証されました。そうして道長は「この世をば」という歌を詠じたのです。

それに対して明子の娘は天皇には入内していません。ある意味息子たちの出世以上に、娘たちが後宮に入内して皇子を生むことの方が、政権の獲得につながったといえそうです。その最初が彰子の入内でした。その折、一条天皇には道隆の娘定子が先に入内しており、その定子には有名な『枕草子』を書いた清少納言が、女房として出仕して後宮の文化を領導していました。
それに対抗するために道長が選んだ切り札が、物語作家としての才能を発揮していた紫式部だったのです。大河ではその紫式部(まひろ)と道長(三郎)を早々と出会わせましたね。もちろん二人が幼馴染だったという資料はどこにもありません。これも大石さんの創作なのでしょう。
そういえば第2回のタイトルは「めぐりあい」ですね。第1回は「約束の月」でした。この二つの言葉をつなぎ合わせると紫式部の代表歌、

めぐりあひて見しやそれともわかぬ間に雲隠れにし夜半の月かな

が浮かんできそうです。
おそらく第2回では成人した二人が運命的にめぐり会うことになるのでしょう。

 

※所属・役職は掲載時のものです。