「三才女」を知っていますか?
吉海 直人(日本語日本文学科 特任教授)
みなさんは「三才女」という言葉から、何を思い浮かべますか。
古典の素養が足りない人だったら、ストレートに「三才の女の子」だと思うかもしれません。
でもこの「三才女」は「三歳」ではなく、「三人の才能のある女性」を意味しています。しかもそれは平安時代の女流歌人に限定されています。では平安時代における「三才女」といったら、みなさんは誰のことだと思いますか。一般には、知名度の高い紫式部・清少納言・和泉式部の三人の名前があがってくるのではないでしょうか。ところがこの「三才女」は、それとはまったく別の三人でした。つまり「三才女」は、王朝女流文学者ベストスリーのことではなかったのです。
もともとこの「三才女」は、明治43年7月に刊行された『尋常小学読本唱歌』に掲載されている唱歌の曲名でした(原典は『尋常小学読本』)。作詞は国文学者の芳賀矢一で、作曲は岡野貞一とされています。ただし作詞者については、石原和三郎とする説もあります。その歌詞を三番まであげると、
一、色香も深き 紅梅の 枝にむすびて 勅なれば
いともかしこし 鶯の 問わば如何にと 雲居まで
聞こえ上げたる 言の葉は 幾代の春か かおるらん
二、みすのうちより 宮人の 袖引き止めて 大江山
いく野の道の 遠ければ ふみ見ずといいし 言の葉は
天の橋立 末かけて 後の世永く 朽ちざらん
三、后の宮の 仰せ言 御声のもとに 古の
奈良の都の 八重桜 今日九重に においぬと
つこうまつりし 言の葉の 花は千歳も 散らざらん
となっています(七五調ですね)。ご覧になればおわかりのように、歌詞の中に「三才女」の名前は一切出ていません。
もちろん二番の「大江山」歌は有名なので、すぐに小式部の名があげられますよね。また三番の「古の奈良」歌にしても、伊勢大輔の歌であることはわかるはずです。これで「三才女」のうちの二人はわかりました。三人目を考えるヒントは、一番の「勅なれば」歌の作者です。ただし「勅なれば」は百人一首にもとられておらず、その歌を知っている人は少ないかと思います。ましてやその作者の名もすぐにはあがってこないでしょう。この「勅なれば」歌の作者は紀内侍という人ですが、名前を聞いてもピンときませんよね。実は紀内侍は紀貫之の娘でした。でも、他の二人ほどには有名ではありません。ここであらためて歌詞を見てみると、紀内侍(紅梅内侍)の、
勅なればいともかしこし鶯の宿はと問はばいかが答へむ(拾遺集531番)
歌がモチーフ(核)になっています。これは『大鏡』などに収録されている「鶯宿梅」説話を踏まえたものでした。ただし『拾遺集』531番は読み人知らずになっています。そのためひとつ前(530番)の作者である道綱母の歌だと誤解されることもありました。
続く二番は『袋草紙』『十訓抄』『古今著聞集』などの説話集に収録されている小式部の、
大江山いく野の道の遠ければまだふみもみず天の橋立(金葉集550番)
歌を踏まえたもの、三番は『袋草紙』にある伊勢大輔が八重桜を詠んだ、
いにしへの奈良の都の八重桜けふ九重に匂ひぬるかな(詞花集29番)
歌を踏まえたものとなっています。三人とも即座に歌を詠んだ点が高く評価されています。この歌詞はすべて芳賀矢一が創作したものでした。要するに「三才女」を提起しているのは芳賀矢一であって、それ以前に「三才女」という概念は存在していなかったようです。逆にいえば、「三才女」は芳賀矢一によって提起された組み合わせということになります。当然、文学史などでは一切言及されていません。
もちろん芳賀矢一の工夫も認められます。
一番には「雲居まで聞こえ上げたる言の葉は 幾代の春かかおるらん」とあるし、
二番には「ふみ見ずといいし言の葉は天の橋立末かけて後の世永く朽ちざらん」とあります。
さらに三番には「つこうまつりし言の葉の花は千歳も散らざらん」とあって、すべてに「言の葉は(の)~らん」という表現を用いて、彼女たちの事跡が顕彰されていることを確認してください。
こうして芳賀矢一によって新たに提起された「三才女」ですが、残念なことにあまり流行しませんでした。そのため「三才女」の名前を三人ともあげられる人はほとんどいません。ちょっと残念です。是非この機会に覚えてください。
※所属・役職は掲載時のものです。