「下京や雪積む上の夜の雨」(凡兆)
吉海 直人(日本語日本文学科 特任教授)
これは『猿蓑』(元禄四年刊)に所収されている野沢凡兆の有名な句です。しかしこれは凡兆と芭蕉の合作といった方がいいかもしれません。というのも、上句は芭蕉が提案したものだからです。
この件については芭蕉の弟子である向井去来の『去来抄』に次のように出ています。
此初冠なし。先師をはじめいろいろと置侍りて、此冠に極め給ふ。凡兆「あ」とこたへて、いまだ落ちつかず。先師曰、「兆、汝手柄に此冠を置くべし。若まさる物あらば、我二度俳諧をいふべからず」と也。去来曰、「此五文字のよき事はたれたれもしり侍れど、是外にあるまじとはいかでかしり侍らん。此事他門の人聞侍らば、腹いたくいくつも冠置るべし。そのよしとおかるる物は、またこなたにはおかしかりなんとおもひ侍る也」
これによれば、凡兆は当初、上句のない「雪積む上の夜の雨」ができたのですが、これに合う冠(上五)がなかなか思いつかないと芭蕉に訴えたようです。そこで芭蕉や門人たちはあれこれ考えて、遂に「下京や」がいいということになりました。それに対して凡兆は完全には納得していません。ここにある「あ」は、納得しかねる意味の発語のようです。すると芭蕉は、この上五に勝るものがあれば、私は二度と俳諧については口にしないと自信たっぷりに言い切りました。
その一部始終を見聞していた去来は、それに続いて「この「下京や」がいいことは誰でもわかるが、これ以上のものはあり得ないとまでは思わないでしょう。もし他の流派の俳人がこれを聞いたら、きっと笑止千万とばかりいくつも替わりの上五を作るでしょう。しかしその代案は、我々門人にとっては滑稽に違いないと思います。」と例によって芭蕉寄りの意見を述べています。要するに去来は、凡兆には芭蕉のすごさがわかっていないというのです。幸い凡兆は代案を出さなかったので、この句は凡兆の傑作として今日まで評価されることになりました。
それもあって、この句は何故「下京」なのかということがよく論じられています。これが「上京」だったら何故駄目なのかということです。私だったら中七に「上」とあるので、「上京」より「下京」の方が語呂合わせとして適しているといいそうです。京都の町の構造からすると、「下京」は下町(商工業に携わる庶民の町)になるのでしょうか。ひょっとすると凡兆は、庶民的な「下京」よりも上品な「上京」の方がよかったのかもしれません。また京都の盆地気候からすると、「上京」(北)と「下京」(南)では海抜が30メートルほど違います。海抜が高い分「上京」の方が寒いので、雪は解けにくくなるわけです。
この句の鑑賞には、夜の静寂の中に「ほのかな暖かみ」を見出すものがあります。雪の後の雨ですから、当然気温は上がっています。まして「上京」ならぬ「下京」ですから、翌朝にはきっと雪も解けているに違いありません。そういった雨の暖かさなのでしょうか。
そう思っていたら、川浪春香氏が「蕪村の傑作「夜色楼台図」を見るたびに、凡兆のこの句が浮かんでくる」(京都民報)と書かれているのを見つけました。また篠原徹氏も「俳諧からみた京都―芭蕉の近江・蕪村の京」『京都の文化的景観調査報告書』の中で、蕪村の「夜色楼台図」の解説に「蕪村は自ら住む場を凡兆が詠んだ情景を脳裏に描いていたのではないか」と書かれていました。
最近目にした田中貴子氏の『いちにち、古典』(岩波新書)でも、この「暖かみ」にこだわって、下町の生活臭がただよっていることまで述べられています。そして最終的に「雪の夜景の発見」ということで、やはり蕪村の絵を登場させています。蕪村が凡兆の句を念頭に置いていたかどうかは定かではありませんが、両者は期せずして「下京の雪の夜景」を発見しているというのです。
あくまで蕪村の解釈なのですが、これを踏まえると、「下京」と置くことによって、言外に下町の家々に灯るほのかな灯りが幻想されることになります。つまりその灯りの暖かさだということなのです。みなさんはこの句から灯火が読み取れますか。仮に芭蕉が下町の灯りまで幻視していたとすれば、凡兆の発した「あ」は、芭蕉に対する敗北宣言と解することもできそうです。もちろんこの「あ」を承服しかねる意味に取ることだってできます。もしそうなら、凡兆は死ぬまで「下京や」よりもいい上五を考え続けなければなりません。
※所属・役職は掲載時のものです。