同志社を救った一通の手紙

中村 信博 (聖書)

孤立無援のなかで

けさの主題は大袈裟かもしれません。「同志社を救った一通の手紙」というのですから、あるとき、同志社は存亡の危機のなかにあったことを暗に示しています。そして、その危機を救ったのは他ならない同志社創立者新島襄が書いた一通の手紙であったということを申しあげたいと思いました。

きょうご紹介したい新島によって書かれた手紙は、岩波文庫版の『新島襄の手紙』(同志社編、2005年)では35番目の手紙として収録されています。アメリカにおける養父であり、おそらく新島が生涯でもっとも信頼したアルフィーアス・ハーディーに宛てて書かれたとびきり長文の手紙です。日付は1879(明治12)年9月4日です。そのころ、同志社英学校の創立から4年目を迎え、3カ月前の6月12日には、英学校最初の卒業生を世に送り出したばかりでした。傍目には、同志社のスタートは順風満帆に見えていたはずです。

ところが、新島はその最中にずいぶんと悲観的な手紙をハーディーに送っているのです。

(この危機について)宣教師の方々にもお話ししましたが、彼らは事態を認識していないと思います。このように微妙な状況を理解してもらうのは、むずかしいのかもしれません。(岩波文庫『新島襄の手紙』同志社編、2005年、150ページ)

との訴えです。岩波文庫版では、この手紙には「実際には学生にも、宣教師である教員たちにも理解できないほどの危機的状況にあり、新島は当事者として苦難に喘いでいた」(同書、140ページ)との解説文が付されています。

新島は孤立無援のなかで、これからお話をする同志社の危機に立ちむかわざるを得なかったのでした。

同志社存亡の危機

この危機は同志社女子大学のルーツである同志社女学校にとってもけっして無関係ではありません。それは、本学145年に及ぶ大切な歴史の一コマでありました。

新島は同志社女学校にJ・ウィルソンとH・F・パーミリーというふたりの女性宣教師を雇用しようとして京都府に申請をするのですが、理由も示されないまま拒否されてしまいました。新島は当時外務卿という立場にあった寺島宗則にも直接交渉をいたしましたが、状況の進捗を見ることはできませんでした。

新島は日本政府の頑なな姿勢の背景には、京都府知事によって「教育をすると見せかけて学校を始めたが、本当の目的は帝国にキリスト教を広めることだ」という噂を流されたことが原因ではないかと疑っていたようです(同書、144ページ)。

現象としては、同志社女学校にふたりの女性宣教師を雇用できるかどうか、小さな問題のようにしか見えません。しかし、実際には日本政府の誤解を解かなければ前に進めない巨大な壁が立ちはだかっていました。

新島はアメリカ留学中から交流のあった森有礼に相談するために東京まで出向いています。この人は日本の初代文部大臣として知られていますが、当時は外務大輔という立場にありました。ハーディー氏に宛てた手紙には、このときの森の助言がそのまま書かれていますから引用してみましょう。

もしもあなたが、アメリカン・ボード(アメリカの宣教団体)の資金ではなく自前の資金を用いるのであれば、学校を存続させる権利も外国人教師を雇う権利もあなたにはあります。外務省は、あなたが毎年アメリカン・ボードから補助金を受け取り、それに全く依存しているのをたしかに好ましいとは思っておりません。(同書、146ページ)

つまり、毎年アメリカから送金される補助金で運営するのではなく、同志社が自由に使うことのできる恒久的な基本金を設定して、その基本金によって運営するのでなければ、日本政府は同志社を日本人の学校としては認めないだろうというのです。森は、それが認められなければ、外国人教師を雇用するどころか、学校の存続そのものも不可能であると忠告したのでした。

森の助言にしたがって、この巨大な障壁を突破するために、新島は同志社の校長として、少なくとも10万ドルの基本金を準備しなければなりませんでした。10万ドルというのは、その数年前、1874年10月9日に新島が帰国直前にバーモント州ラットランドの教会で日本にキリスト教主義の学校を設立したいと訴えたときに得た5千ドルの寄付金から考えてもあまりにも巨額です。そのわずか数年後に、同志社は20倍の巨額資金がなければ、立ち行かない大変な危機に陥っていたことになります。

新島はひとりだったのか

時間がありませんから結論を急ぎます。結局、新島は周囲のだれも気づいていない状況のなかで、この巨額の資金援助を、偶然に当時アメリカン・ボードの委員長であったハーディーに懇願することを決断いたしました。この無謀にさえ思える新島の作戦は成功し、幸いにも同志社はこの危機を脱することができました。

しかし、私はこの新島の手紙には、その結果以上に考えておかなければならない問題が隠されているような気がしてなりません。それは、新島がたったひとりでこの危機に立ちむかうことができたことの意味についてです。

本日お読みいただいた創世記2章7節には、神によって土の塵からつくられた人は、命の息をその鼻に吹き込まれ、「こうして生きる者となった」と書かれていました。人は、いずれは土に還ります。その土の塊に過ぎない私たち人間が生きるために、聖書は人の鼻には命の息が吹き込まれているというのです。

最近、宗教、文学、思想など幅広い分野で活発な研究、著作活動を続けておられる東京工業大学教授の若松英輔さんという方が、ある座談会のなかでこんな発言をしておられました。

もう一つ考えたのは、感染の問題で飛沫とかエアロゾルとか、僕たちは呼吸を通じて交流していたということです。そのことに気づかされた。僕たちはこんなにも空気、呼吸というものによって世界と交わっていたことを改めて自覚しました。(末木文美士すえきふみひこ編『死者と霊性─近代を問い直す』岩波新書、2021年33ページ)

命の息、呼吸が必要なのは、その息や呼吸をとおして、じつはすでに人と人とが出会い、交流を重ね、つながっているはずだ、それが生きるということなのだという意味です。

コロナ禍で、いま緊急事態宣言は解除されているとはいえ、私たちはどうしても人と人との距離、ソーシャル・ディスタンスや互いの関係を意識せざるを得ません。そんななかで、たったひとり、孤独のなかにいるかもしれない。そんな恐怖が私たちを襲います。

けれども、新島はたったひとりになっても自身が命の息を注いだ同志社のためになにができるのか、考え続けました。新島はさきほどのハーディーに宛てた手紙の終わり近く、「今の私の立場では自分の口かペンが使える限り、乞うのをやめません。キリストのためにそしてわが国のために物乞いになって大声で叫びます」(同書、151ページ)と書いています。私は、それこそが新島にとっての命の息であったのではないかと考えてみるのです。

新島には、物乞いになってでもやめないとする大切な同志社がありました。たとえ、そのなかにだれも新島の苦労を共有する人がいなかったとしても、新島はその同志社のために命の息を注ごうとしたのです。私たちもまた、新島のようにそれが同志社でなくても、この私にとっての大切なだれかを見つけ、大切なだれかを隣人として、大切なだれかのためになにができるのか、逆説のようですが、ときにはたったひとりになって考えてみることが必要なのかもしれません。そして、ひとりになって自身の内面を見つめながら、しっかりと息を吸い込み、呼吸を整えて、大切なだれかのために、大声で叫ぶことができるものでありたいと、改めて心から願うものであります。

145年を語りつぐ