新島襄の青春――自由への憧れ

加賀 裕郎 (教育学概論)

新島襄のアメリカ体験

私は長い間、本学で行政職にあったおかげもあり、新島襄の人生で重要だと思われる、いろいろな場所に行く機会に恵まれました。その際、新島襄になったつもりで、折々の出来事を追体験することを心掛けました。そうすると函館から密出国してアメリカに渡って以降の10年に及ぶ異文化体験は、新島襄にとっての青春であり、その体験を貫くのは自由への憧れだったと思うようになりました。今日は、新島襄の青春を通して、同志社の自由主義について、お話したいと思います。

先ほど、新島襄の人生で重要だと思われるいろいろな場所に行く機会に恵まれたと言いました。日本でも、新島ゆかりのさまざまな場所に行く機会を得ましたが、今回はアメリカについてお話しましょう。

新島は1864年に密出国し、1年かけてボストンに到着しました。新島は亡命者でした。彼の地で新島はアルヒュース・ハーディ氏のお世話になるのですが、そのお宅は現在も現役であり、私はその場所を訪れることができました。新島はハーディ氏に渡米の主旨を理解してもらうために、海員会館に泊まって英文で文章を書くのですが、その会館は現在でもありました。またボストンで新島が通ったOld South Churchを訪れることもできました。ハーディ氏宅の近くには、アメリカ最古の海外伝道団体であるアメリカン・ボードがあり、現在も資料館のような形で使われています。新島はこの団体から準宣教師として日本に派遣されたのでした。新島が何度も訪問したであろう、この建物を訪れることができました。

新島はハーディ氏に出資してもらい10年間、三つの学校に通いますが、そのうちの一つアーモスト大学を訪問することができました。同大学にはジョンソン・チャペルがあり、そのチャペルの前方には新島の肖像画が掲げられていました。アーモスト大学は全寮制ですから、新島もキャンパス内の学寮に住みながら、勉学を続けたのでしょう。この大学のキャンパス内に美術館や博物館まであるのには驚きました。リベラル・アーツカレッジの奥深さです。新島はアーモスト大学卒業後、アンドーヴァー神学校に進み、宣教師の試験に合格し、1874年の7月に、同神学校の選科を卒業しました。

グレース教会のスピーチ

そして帰国前の同年10月、アメリカン・ボードの年次総会に招待され、スピーチをする機会を与えられました。会場は、ヴァーモント州ラットランドのグレース教会でした。新島のスピーチは同志社の原点として、今でも語り継がれています。新島は日本に準宣教師として派遣される予定でしたが、それに加えてクリスチャン・カレッジを創りたいとスピーチしたのです。すると寄付が一夜にして5,000$も集まり、中には帰りの汽車賃2$を寄付した貧しい農夫までいました。そうした名もなき人々の善意が同志社創立を支えたのです。

グレース教会に集う人々の善意は現在も健在です。私がグレース教会を訪れたとき、牧師先生だけでなく、教会の年配の男女教会員2名が入り口で出迎えてくれて、女性会員は私にグリーティングカードを渡して歓迎してくれました。あの時の牧師先生と2名の教会員のことは忘れることができません。見知らぬ人々に対してオープンで歓待の精神に溢れたアメリカ人のすばらしさを、改めて感じることができました。

新島襄のアメリカ体験

こうして日本とアメリカにおける新島の人生を私なりに追体験していくうちに、密出国に始まるアメリカとヨーロッパの、10年間の異郷での生活は、新島の青春時代であり、その時期に最も大切なものとして学んだのは自由だったのではないかと考えるようになりました。新島が密出国を敢行したのは21歳の時であり、そこから10年間というと30歳を超えているのですから、「新島襄の青春」ということばには違和感があるかもしれません。しかし年齢の問題ではありません。

生まれたときに自分の社会的属性が決まっているような封建的社会には、青春時代は存在しません。身分制が壊れ、自分のアイデンティティをもがきながら自力で創り出さざるを得ない社会になって、出現した人生の一時期が青春時代です。封建的社会は安定してはいますが、息苦しく停滞した社会です。新島は、封建社会の桎梏しっこくから「亡命者」として完全に解放され、アメリカという異郷にあって、自らの人生のあり方を模索しつつ、宣教師と教育者という自らのアイデンティティを確立したのです。新島と同時期にアメリカに留学した若者も少なからずいましたが、彼らの多くは「国家のための有為な人材」になることを目指して留学しました。しかし「お国のために」的な狭く息苦しい枠組みから自由になり、自分の人生のあり方を原点から創り出そうとする生き方にこそ、青春があります。したがって青春時代と自由は不可分です。

新島がいかに「自由」を大切にしていたかは、新島自身もさまざまなところで語っています。よく知られた例の一つが、後に文部大臣となる若き日の森有礼との出会いです。当時の森は新島より4つ下の23歳でしたが、既に小弁務使という肩書をもつ外交官でした。森は新島に対して、パスポートをもらってやろう、またハーディ夫人が新島のために拠出した資金を国が返済しようと申し出ました。資金提供の申し出に対して新島は断固拒否の意志をもち、ハーディ氏もその申し出を断ったそうです。新島は断固拒否の理由として、資金提供を受けてしまったら国に隷属しなければならず、それよりも自由な日本人として主のために尽くしたいと述べました。

新島襄のアメリカ体験

新島の自由観には、宗教的な意味合いがあることは確かです。新島がアンドーヴァー神学校で学んでいた当時、そこにはニューイングランド神学最後期の神学者、エドワーズ・アマサ・パークがいました。新島がパークの講義を受講した可能性もあり、以前の奨励で、新島の自由観をニューイングランド神学に引き寄せてお話したことがあります。しかし現実には、仮にパークの講義を受講したとしても、新島が英語での専門的な神学講義を理解することは困難だったと思います。だから新島の自由観には、亡命者としてすべての桎梏しっこくから解放されて、一から自分を見つめ直した経験、そしてアメリカで経験した自由で民主的な風土からの影響のほうが色濃く反映されていると思います。

和田洋一氏の『新島襄』(岩波現代文庫、2015年)を読みますと、新島と自由民権派との関係は10年にわたって続いたと書かれています。新島と板垣退助の間には交流がありました。和田氏によると、彼らの間には「迫害されている者同士の共感と自由を愛する者同士の連帯感」(同書、240頁)がありました。明治初期の京都で、キリスト教主義の学校を経営することは、大変なことだったのです。同志社建学の精神である自由主義には、あらゆる外部からの抑圧、桎梏しっこくから解放された独立独行の精神、一から自らの人となりを築こうとする進取の気性、自由のために闘うことを厭わない気概が含まれていると思います。これが私にとっての同志社スピリットの大切な要素です。

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