田辺キャンパスへの長い道

同志社の歴史に「田辺」という地名が初めて現れるのは1965(昭和40)年のことである。今出川キャンパスの限られたスペースは年々手狭になり、同志社理事会は大学設置基準を満たすためにも、また教育研究環境の充実のためにも、新時代へのヴィジョンを描き得る用地として、京都府綴喜郡田辺町の広大な土地を近畿日本鉄道から買収するという計画に乗りだしたのである。この年8月14日の理事会で「田辺校地に関する基本方針」が承認されたことを受けて、8月25日に「校地拡張委員会」が、ついで12月4日には「田辺用地専門委員会」が組織され、住谷悦治総長、秦孝治郎理事長、上野直蔵大学長、越智文雄女子大学長ら各委員による調査と協議を経た後、翌年9月7日に正式な土地売買契約が結ばれた。この時取得した用地は約47万平方メートルであり、1968年の第2次買収分を加えると、約100万平方メートルになる。女子大学の所有地となったのは、そのうちの約12.7万平方メートルであった。
ところで当時の田辺町のありさまを関係者のことばから辿ってみると、大学考古学の森浩一教授は「雑木林や竹藪の連続で、小径もほとんどなく、踏査になれている私でさえ、たじろいたほどだった」と述べているし、のちに女子大学田辺キャンパスの設計を担当した富家宏泰は、秦理事長、上野大学長とともに視察に訪れた折を回顧して、「全くの荒地で、南傾斜のなだらかな丘陵地帯であるが、身丈にも及ぶ灌木と雑草の中を、敷地境界の標識を求めて歩いた」と記している(『同志社時報』80)。造成以前の田辺校地は、このように寂寞とした荒れ地、まさに野ウサギやタヌキの棲家だったようである。その後15年の歳月を経て、1980(昭和55)年に同志社国際高等学校が先陣を切って田辺に開校するわけだが、その時代にあってさえ「山の中の奥地に来たといいますか (……) 島流しにあったような、ロビンソン・クルーソーとはいいませんが、なんでこんな所へ来たんやろとまさにそのような思いでした」と、山本通夫校長はこの地の第一印象をユーモアをまじえて語っている(『同志社時報』79)。
のちに関西文化学術研究都市構想が発表されて期待が高まり、今でこそ先見性を認められて、「英断」と評価される田辺校地の取得であるが、同志社創設の地、90年の伝統に支えられた今出川を遠く離れ、なんの縁もゆかりもなかった田辺町の広大な未開発の地を、破格の安価とはいえ大金を投じて、あの時代に買収したのである。それは当然、学内に大きな不安と白熱した論争を引き起こすことになった。京都御所の緑を眼前にのぞみ、明治期の重厚なレンガ建築の建ち並ぶ今出川キャンパスになじんだ者にとって、一足飛びの「田辺移転計画」はもとより、田辺キャンパスでの授業実施さえ、受け入れられる段階でなかったことは想像に難くない。まだ買収交渉の半ばにあった1965(昭和40)年11月に始まり大学紛争渦中の1969年7月にかけて、『同志社女子大学学生新聞』と『同志社女子大学学生会誌』には、この問題を取り上げた記事が数か所みられるが、そこでは学校側への強い不満が率直にぶつけられている。
しかし学生のかかえた不安は、多くの教職員も共有していたわけである。そのため、学内のコンセンサスを求める努力が、長期にわたって慎重に続けられることになる。田辺キャンパス開学にたずさわった当時の関係者による文書には、「紆余曲折」「産みの苦しみ」「ドラマ」ということばが繰り返されているが、そうとしか表現しようのない長い忍耐と困難のプロセスを乗り越えて、「同志社創立以来未曾有」とされる、この大プロジェクトは実現し得たのだろう。その苦労は察してあまりある。

  • 女子大学田辺校地 同志社大学にさきがけて整地された(1967年)
    6-1 女子大学田辺校地 同志社大学にさきがけて整地された(1967年)

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女子大学の田辺校地利用計画

1966年9月の第1次土地買収の後、女子大学は大学にさきがけて、翌年2月に運動場造成工事に着手している。大学の場合と同様、女子大学にとっても校地不足の深刻さは限界に近づいており、早急な対策が必要だった。同年1月に認可された家政学部増設申請中に、文部省に校地問題を指摘され、改善をはかるべく指導を受けたことが発端であった。同年8月7日の評議会はこの問題を取り上げ、短期大学部設置を含めて、田辺校地利用に関する議論を始めたが、前述したように、学生のみならず多くの教職員も強い懸念をもっていた時代である。具体的構想に手をつけ、抜本的な改革に向かうには、機はまだまだ熟していなかった。
運動場造成工事が完了した1967年9月、女子大学は引き続き課外活動用宿泊施設を着工する。女子中高の旧校舎(新生館、希望館)の廃材を用いた、この木造平屋建て施設は、翌年1月末に竣工し、3月13日には「田辺学舎」として開舎式が催された。学生主任として図面も描き、開設にたずさわった児玉実英教授は、教職員が「学生のためならばと」大勢ボランティアで参加し、掃除や準備作業をこなして開舎にこぎつけた折の、ほほえましいエピソードを披露している(『同志社女子大学通信』47)。その後、田辺学舎は修養会やクラブ合宿などに利用され、多くの学生に親しまれたが、本格的な田辺校地利用計画の中で、1984年9月30日に閉舎、翌年1月に撤去された。
田辺校地利用をめぐる審議は、1972(昭和47)年12月8日、「田辺校地検討委員会」(岡野久二委員長)の発足によって再開され、その後10年の間に、「田辺校地利用委員会」(玉置日出夫委員長)、「短期大学部設立検討委員会」(玉置委員長)、「新学科検討委員会」(石田章委員長)、「第二次新学科検討委員会」(荻野恕三郎委員長)、「田辺校地利用検討委員会」(高山修委員長)、「第二次田辺校地利用委員会」(沖中靖委員長)と改組が重ねられた。まさに二転三転しつつ検討された感があるが、「第二次田辺校地利用委員会」によって提出された答申が1983年2月1日の教授会で承認されたことによって、田辺校地利用計画は具体化され、「将来の全学移転、学芸学部の改組、短期大学部の設置」という明瞭な目標をもつことになった。直後の2月7日の評議会では、岡野久二学長を委員長とする「田辺校地利用実行委員会」が、下部組織となる四つの専門委員会と、学長の直属機関である「田辺校地利用準備室」(宮下隆夫事務長)とともに設置され、さらに7月以降には「短期大学部設立準備委員会」(尾崎寔委員長)なども加わって、本格的な準備が意欲的に進められていった。若干の修正を経た後、最終的な実施計画が同年12月5日の教授会で承認され、田辺キャンパスの1986年4月開学に向かって、長い構想はついに実現への扉を開いたのである。
同志社田辺キャンパス起工式は、1985(昭和60)年1月9日に催された。林田悠紀夫府知事を来賓に迎え、大勢の列席者が見守る中、木枝燦総長代行、岡野久二学長らとともに鍬入れが行われたこの起工式は、オルガンと讃美歌が響き、聖書朗読と祈禱がささげられる、同志社にふさわしいものであった。
キャンパス開学まで、工期はわずか1年である。大学でも、女子大学との同時田辺移転が決定していた。大学の工事を含めると、全体で延べ約30万人(女子大学のみで6万人)の作業員を要する、壮大な建設プロジェクトとなる。女子大学の工事には、竹中工務店と鹿島建設が共同企業体として参入した。具体的な建築計画については、1983年2月に発足した専門委員会のひとつ「整備計画委員会」(岡野委員長/石田委員長)を中心にまとめられた。1986年度の短期大学部(英米語科、日本語日本文学科)設立と定員増を伴う学芸学部音楽学科の移転、1988年度の学部(部分)移転と新学科増設に向けて、次ぎつぎと年次計画が立てられていくことになる。

  • 田辺学舎開舎準備 大勢の教職員がボランティアで集まった
    6-2 田辺学舎開舎準備 大勢の教職員がボランティアで集まった
  • 田辺学舎でのクラス合宿(1973年)
    6-3 田辺学舎でのクラス合宿(1973年)
  • 近鉄「興戸」駅 開学当時
    6-4 近鉄「興戸」駅 開学当時
  • 田辺学舎グリーンチャペル遠景
    6-5 田辺学舎グリーンチャペル遠景
  • 立入禁止を示す立て看板
    6-6 立入禁止を示す立て看板
  • 田辺学舎正面玄関
    6-7 田辺学舎正面玄関
  • 岡野久二 第7代学長(1978-1987)
    6-8 岡野久二 第7代学長(1978-1987)

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創設期の田辺キャンパス

1986(昭和61)年3月27日、同志社大学、同志社女子大学合同による田辺校地竣工式が、完成なった女子大学の恵真館(体育館)で盛大に催された。第1次土地売買契約締結からは20年目、新島襄による1875(明治8)年の同志社創立から数えると、111年目という節目の年にあたる。「学校法人同志社は、心からなる感謝をもって、五十三の建造物と諸施設を神のおん前に捧げ、ここに同志社大学と同志社女子大学の田辺校地を開校いたします」という松山義則総長の宣言が、石田章教授によって記録されているが(『しばぐさ』25)、当日の感激がしのばれて、大変印象深い。女子大学音楽学科交響楽団によってブラームスの「大学祝典序曲」が演奏され、感謝と祈りにあふれた、荘厳にして清々しい式典であった。
この田辺キャンパスに、女子大学は第1期計画として、知徳館(講義演習・管理研究棟)、頌啓館(音楽棟)、恵真館(体育館)、草苑館(食堂棟)という、真新しい四つの建物を開設することができた。『同志社女子大学通信』第56号には、恵真館を除いた三つの建物が巻頭写真として掲載されており、この写真は同誌第100号でも再び紹介されて、「まるで砂漠に建った学校のような印象(……)校舎群の上は雲一つない青空、前方には樹木一本生えていない白っぽい大地(……)田辺キャンパスの出発点を如実に記録している図」と解説が加えられている。翌年には草苑館前と頌啓館東側に広場が設置され、その後着々と植栽が続けられてきた。緑にあふれた現在のたたずまいからは想像もつかないだろうが、開設時の田辺キャンパスは確かに「砂漠に建った学校のよう」であった。
この時代の関連文書をながめると、「夢」「希望」「21世紀」「改革」「エネルギー」「躍動」「熱い想い」といった、ダイナミックなことばが並んでいることに気がつく。宿願であった大事業を実現し、女子大学の将来をかけて、新しいスタートを切ったわけである。岡野学長が「新しいカナンの地」(『同志社女子大学通信』56)と、小田幸信短期大学部長が「新しい皮袋」(『しばぐさ』25)とたとえたこの真新しい器には、短期大学部第1期生482名と学芸学部音楽学科の全学年282名、という最初の種子もまかれた――当時のキャンパスに充満していた意気込みと使命感のほどは、容易に理解できよう。
新設の短期大学部は、広報期間が不十分であったにもかかわらず、予想以上の志願者(推薦入試では、定員の約15倍)が押し寄せて、大難関となった。この順調な船出をさらに確実なものとするために、女子大学初の試みとして、短期大学部新入生を対象に、ラフォーレ琵琶湖での1泊2日の「学外オリエンテーション」も企画された。音楽学科をはじめ、今出川キャンパスからも3・4年次生の協力があり、24名が上級生リーダーをつとめて、このキャンプが大きな成功を収めたことは、ぜひ記憶に留めたい。短期大学部の開学式は、5月10日、約350名の出席者を得て頌啓館ホールで行われたが、このときも音楽学科学生たちの合唱するロッシーニ「三つの聖歌」によって、祝典が盛りあげられた。
開学直後の広いキャンパスに、短期大学部第1期生だけでなく、学芸学部の「先発」として音楽学科が移転し、「上級生」が存在した意味は大きい。移転と同時に、音楽学科では定員増が行われ、最新の音響設備をもつ「頌啓館」が、かつての木造「田辺学舎」の位置に開設された。「頌啓館」とは、それまで今出川キャンパス音楽棟に用いられていた名前である。音楽学科にとって歴史的に愛着のある名称であり、新しい本拠地となる田辺キャンパスに移された。同時に今出川キャンパスの音楽棟は「頌美館」と名称変更され、由緒ある中型パイプオルガンも、田辺キャンパス「頌啓館」3階の演習室に移設された。
「新しきものに古きよき伝統を、そして、古きものに新たなる息吹を吹きこむ絶好の時」という石田章教授のアピールにあるように(『しばぐさ』25)、女子大学の田辺キャンパス開学は無から有が生みだされた結果ではなく、今出川キャンパスでの長い歴史、という礎に支えられていることは言うまでもない。いまや女子大学の課題は、今出川の「古きよき伝統」を田辺キャンパスに移植し、田辺からの「新たなる息吹」によって、今出川キャンパス自体も活性化させることであった。1986年11月6日に催された、田辺キャンパスにおける第1回スポーツフェスティバルの折にも、短期大学部学生だけでなく、今出川キャンパスからの三百余名の学生も加わって、多数の教職員とともに歓声をあげて過ごすことになった。当時の岡野学長が率先して競技に参加し、綱引きの先頭に立ったことなども、なつかしく思いだされる。

  • 植裁のない「砂漠のような」田辺キャンパス(1986年)
    6-9 植裁のない「砂漠のような」田辺キャンパス(1986年)
  • 同志社大学、同志社女子大学合同 田辺校地竣工式(恵真館)
    6-10 同志社大学、同志社女子大学合同 田辺校地竣工式(恵真館)
  • 完成間近の女子大学田辺キャンパス
    6-11 完成間近の女子大学田辺キャンパス
  • 短期大学部スタッフ 第1回短期大学部教授会の後岡野学長以下教職員全員(知徳館前)
    6-12 短期大学部スタッフ 
    第1回短期大学部教授会の後岡野学長以下教職員全員(知徳館前)
  • 学外オリエンテーションしおり第1号 この行事は短期大学部開学を契機に始められた
    6-13 学外オリエンテーションしおり第1号
    この行事は短期大学部開学を契機に始められた
  • 短期大学部第1回学外オリエンテーション直前合宿 上級生リーダーが活躍をみせた
    6-14 短期大学部第1回学外オリエンテーション直前合宿 上級生リーダーが活躍をみせた
  • 頌啓館3階演習室に移設されたパイプオルガン
    6-15 頌啓館3階演習室に移設されたパイプオルガン
  • 田辺キャンパスでの第1回スポーツフェスティバル
    6-16 田辺キャンパスでの第1回スポーツフェスティバル
  • 綱引きの先頭は岡野学長
    6-17 綱引きの先頭は岡野学長
  • 短期大学部開学式(頌啓館ホール)
    6-18 短期大学部開学式(頌啓館ホール)

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さらなる発展に向かって――伝統と改革のはざまで

1988年春に短期大学部第1期生が卒業し、4月からの学芸学部英文学科1・2年次生移転を契機に、田辺キャンパスは創設の時期を経て、新たな発展段階に入った。すでに年次計画によって、開学4か月後に始められた第2期工事も、この年2月末には完了している。翌年4月に予定される新学科(学芸学部日本語日本文学科)増設と、さらに1年後の英文学科全面移転に備えて、講義演習スペースを確保するために、知徳館が3棟から7棟に増築され、恵愛館(課外活動センター)が建設されて、1階は食堂と購買部、2階は多目的ホールや学生会室、会議室、能舞台のある練習室、茶室などを備えた、本格的な福利厚生施設が誕生したのである。9月には、鉄筋平屋建てのクラブボックスも完成した。また、この年4月1日から事務機構が改編され、それまで総合事務室として機能していた「田辺事務室」がなくなる一方で、施設整備室が設置された。今出川から田辺へと女子大学の本拠地が移る、新しい時代への対応である。
この年の秋には、学校法人同志社の共通施設として、開学当初からの懸案であったチャペル建設も実現した。創立111周年記念事業の一環として、募金により、女子大学の南西角に建てられたこのチャペルは、新島記念講堂と命名され、9月20日に献堂式が挙行された。それまでは過渡的措置として、頌啓館2階に宗教部事務室を置き、1階のホール(400席)で毎日の礼拝を行っていたが、新島記念講堂の完成によって、女子大学の宗教活動の核となる場所が生まれたのである。座席数1,000の大ホールを中心に、会議室を兼ねる小礼拝堂、瞑想室、宗教部事務室などが設けられた。
時代がいくら変わろうと、同志社が同志社として、「誠の自由と良心の人」の育成を目指す限り、キリスト教主義に基づいた宗教教育を「建学の理念」として再認識し、尊重することは不可欠である。そのためには、学生および教職員の一人ひとりが、自然な形で日々その理念と向き合えるような、環境づくりが必要であろう。田辺キャンパスには、開学以前の「田辺学舎」時代からグリーンチャペル(野外礼拝堂)があり、木造の十字架が据えられていたが、1988(昭和63)年3月には、大塚信聖イエス会福音教会牧師の仲介で「アンネのバラ」が寄贈されて、この場所に植樹された。新島記念講堂前にある、新島襄ゆかりのカタルパ(苗木は、秦芳江教授を介して熊本の草葉町教会から譲られた)とともに、女子大学田辺キャンパスを代表する植物だといえる。新島記念講堂の塔屋には、同志社同窓会創立100周年記念募金によって、念願のカリヨンベルが贈られ、1992(平成4)年6月9日に献鐘式が行われた。またこれよりさき、1990年秋には、国際的なグラスアーティストである三浦啓子(女子大学家政学専攻卒業)による6面のロクレール(三浦によって開発された、新手法のステンドグラス)「牧者」が完成し、新島記念講堂のロビーを飾ってもいる。右3面は三浦の寄贈である。
第3期計画として、1989(平成元)年8月22日に着工した図書館棟は、翌年7月末に完成し、「聡恵館」と命名されて、9月28日に献堂式が催された。開学以来、やはり過渡的措置として、知徳館2号棟3・4階に図書館の「田辺分館」が置かれていたが、この分館は新設なった聡恵館1・2階に移転統合されて、本格的な「田辺図書館」が誕生したわけである。聡恵館の3・4階は演習室、5・6階は研究室を中心に使用されることになった。また、情報処理教室とともに開学当初から知徳館に設置され、学内外の注目を集めてきたAVセンターも、LL教室の増設、録音録画用のスタジオ設置、AVライブラリーの充実など、着々と発展をみた。1992年10月1日には、知徳館3階に国際交流センター(竹村憲一所長)も開設された。
こういった動きの中で、今出川キャンパスにも1991年4月には情報処理教室が、翌年4月にはAVセンター今出川分室が設置された。既存の諸施設の改修も行われている。しかしより抜本的に、今出川キャンパスという財産をいかに有効利用するか、という真剣な議論も始まった。石田章学長のもとで1989年4月に発足した「今出川校地利用検討委員会」(稲垣定弘委員長)の答申がきっかけとなり、1994年10月24日(私塾としての京都ホームの開設記念日)、「同志社女子大学史料室」(宮澤正典運営委員長)が頌美館に開設されたことも、その大きな成果であろう。法人同志社の傘下にあって、ともすれば大学に関心が集中し、見過ごされてきた女子大学固有の歴史にスポットライトをあてる場所が生まれた。長くうずもれてきた女子大学の遺産を早急に調査し、収集保存し、次代に継承する必要性が公的に認められたわけである。開設記念に催された第1回展示会「創設期の同志社女学校・M. F. デントン遺品」を皮切りに、同志社女子大学史料室は毎年新たなテーマで展示会を重ね、学内外の理解を広げるべく、種々の企画を立案・実施している。
田辺キャンパスはますます発展する。児玉実英学長時代の1995年の春には、通学路の大規模な整備工事が行われた。それまで「アスレチック階段」とも通称されていた頌啓館裏手の坂道の一部が撤去され、キャンパス南東に「東門」とレンガ造りの門衛所が新設されて、長い遊歩道でつながれたのである。四季折々の植栽をほどこし、途中には展望のための休憩所も置かれた。また、田辺キャンパス開学3年後に開寮した「めぐみ寮」(近鉄大久保駅から約1キロ)が賃貸契約更改の時期になり、諸条件が考慮された結果、1997年春に、近鉄寺田駅前に新たに代替施設を購入することが決定した。インターネット回線敷設も含む大掛かりな改修工事後、この施設は4月1日に新「めぐみ寮」として開寮している。

1997(平成9)年4月1日、「田辺町」は「京田辺市」となった。そして創立125周年記念募金による施設計画として、1999年4月には、京田辺キャンパス新通学路にエスカレーターが設置され、さらに2000年8月に、友和館(京田辺コミュニティーセンター)が建築された。JR同志社前駅から女子大学東門にかけての道路北側も、プラザ的な緑地帯となった。今出川キャンパスでも、頌美館が2000年4月に、事務棟に転換のため全面改修された。2000年8月からはジェームズ館の保存改修(女子大学にとって歴史的遺産であり、レンガ造りの外壁は残して内部のみ全面改修)も始まった。今出川キャンパスの整備改修は、今後も次ぎつぎと行われることだろう。
田辺キャンパスの開学から十余年――この短いスパンの中で、女子大学もめまぐるしく変化した。国公立も含め、全国的規模で大学改革が求められる「少子化の時代」にあって、責任ある同志社教育を果たすためには、険しい道を覚悟する必要があるだろう。1994年6月1日には企画広報部(小原弘之部長)が発足し、女子大学は将来構想の多角的検討に乗りだすことになる。1995年12月には、常任委員会によって「同志社女子大学の将来構想についての提案――『安定した財政基盤にささえられた魅力ある大学』をつくるために――」が発表された。その後、文部省による臨時的定員認可の、来たるべき期間満了が契機となり、1997年3月26日の教授会は「短期大学部を改組転換し、社会科学系統の学部・学科の設置に向けて文部省と交渉を始めたい」旨、承認したのである。この決定に至るまでに、白熱した真摯な議論が重ねられたことは言うまでもない。新学部は「現代社会学部社会システム学科」として文部省に申請・認可され、大勢の志願者を得る中、学内外の期待を担って2000年4月1日に発足した。大橋寿美子学長が指摘しているように、女子大学はいま「伝統と変革の調和の探求」(『しばぐさ』38)のただ中にある。しかし同志社125年の歴史には、その節目節目で、同様に「伝統」と「改革」のはざまに立ち、同様の葛藤が繰り返されてきたはずである。そしてそのたびに、同志社教育の原点を問い直す前向きで誠実な議論があったからこそ、なんらかの調和と解決が見いだされ、現在の発展に至ったのではないか。私どももまた、同じ道を歩きたい。

  • 同志社同窓会寄贈のカリヨンベル
    6-19 同志社同窓会寄贈のカリヨンベル
  • 頌啓館ホール 新島記念講堂建設までは、毎日の礼拝もここで行われた
    6-20 頌啓館ホール 
    新島記念講堂建設までは、毎日の礼拝もここで行われた
  • 「田辺学舎」時代のグリーンチャペル  中央は酒井康教授(1968年)
    6-21 「田辺学舎」時代のグリーンチャペル  中央は酒井康教授(1968年)
  • 新島記念講堂 外観東南面
    6-22 新島記念講堂 外観東南面
  • 新島記念講堂 瞑想室
    6-23 新島記念講堂 瞑想室
  • 新島記念講堂 大ホール
    6-24 新島記念講堂 大ホール
  • 石田章 第8代学長(1987―1993)
    6-25 石田章 第8代学長(1987―1993)
  • 同志社創立125周年記念モニュメント 京田辺キャンパス入口
    6-26 同志社創立125周年記念モニュメント
    京田辺キャンパス入口
  • 屋外エスカレーター 手前は大橋寿美子学長
    6-27 屋外エスカレーター 手前は大橋寿美子学長
  • 聡恵館 外観東面
    6-28 聡恵館 外観東面
  • 新しく整備された東門
    6-29 新しく整備された東門
  • 旧めぐみ寮(大久保)
    6-30 旧めぐみ寮(大久保)
  • 新めぐみ寮(寺田)
    6-31 新めぐみ寮(寺田)
  • 新島記念講堂ロビーのロクレール 三浦啓子作「牧者」
    6-32 新島記念講堂ロビーのロクレール 三浦啓子作「牧者」
  • 展示会ポスター 同志社女子大学史料室
    6-33 展示会ポスター 同志社女子大学史料室
  • 史料室展示会目録
    6-34 史料室展示会目録
  • 同志社女子大学史料室 開設記念展示会(1994年)
    6-35 同志社女子大学史料室 開設記念展示会(1994年)



記念写真誌 同志社女子大学125年