人間関係

女子大学創立以来続けられていたユニークな科目「人間関係」が1972(昭和47)年4月から廃止されることになった。この科目は、1965年に定年退職した福原春代教授が創立当初から育ててきた本学独特の必修科目である。特定の教科の枠を超えて総合的な視点から学生と教師、学生相互の交わりのうちに「人間関係」という根源的な人生の問題を考えようとしたものであった。1965年度には担当者を増やし、総合科目として再編成して、1年次には「大学生活への適応」、4年次には「社会生活への適応」をテーマに分担講義を行い、講義と討論との関連を考慮して実施された。また、新しい試みとして1年次に名誉教授瀧山徳三の「文学と人生」、4年次に前京都大学総長平沢興の「経済から見た人間」という感銘ぶかい特別講演が行われた。
ところが、全国的な大学紛争の中でクローズアップされた大学のカリキュラムに対する問いかけを契機に、本学学生からカリキュラムに対する要求が高まり、「聖書」とともに「人間関係」の検討が始められることになった。聖書6単位、人間関係4単位の必修科目計10単位が一般教育36単位の枠外にあることから、学生の教室拘束時間を軽減するため、1970(昭和45)年から1972年にかけて2科目の取り扱いを大学問題委員会、カリキュラム委員会などで検討した。その結果「人間関係」はその歴史的意義を十分考慮した上で、つぎの理由により廃止されることになった。

  1. (1) 他の授業科目のように、その背景に拠るべき学問体系を持たず、授業科目としての目標および内容の理論化、組織化、体系化および客観的評価基準の定位などに困難性がある。
  2. (2) 本学の教育方針を具現する上で、重要かつ特色ある科目として従来特別な取り扱いを受けた科目であることから、全学体制の上で運営されることが望ましいが、現状では全学的態勢の下での運営が非常に困難である。
    (1971年7月7日教授会提案骨子)

しかし、当時の学長越智文雄は『しばぐさ』14号(1975年)の座談会において、アンケートからも学園紛争期には人間関係というものが見直され、総合科目を始める大学もある中で、本学が「人間関係」を続けられないというひとつの理由として「当事者の教員が自信をなくした」、「(ディスカッションの)引き受け手がない」と述べ、担当者が得られなくなったことをあげている。その他「教育実習」や「家族関係」などの教職科目との関係、大学基準による締めつけもあり、結局複合的な理由から廃止せざるを得なくなったと考えられる。
そこで「人間関係」の代わりに新入生には何らかの少人数教育を行う必要があることから、1972(昭和47)年度入学生よりアドバイザーシステムと教科とを併合し、同志社学園の理解、大学生活への適応、教師と学生の接触、学生間の交流を主な目的として“Tutorial”をおいたが、2年間で廃止された。1974年には“You&I”というシステムが実施され、オリエンテーション期間中に茶菓をとりながら十数名の新入生に教員1名が自由に話し合うものであったが、これも定着しなかった。その後「フレッシュマン・アセムブリー」という、前のふたつの折衷型制度を取り入れるなど数年間試行錯誤を繰り返し、最終的には通常のアドバイザーシステムに一本化された。
家政学部では1981(昭和56)年から1年次の前期に「家政基礎研究」という必修科目(2単位)をおき、アドバイザーシステムをとり入れ、10名前後のクラスを1名の専任教員が担当する入門ゼミのような形式で実施した。現在は生活科学部人間生活学科にのみ「人間生活学基礎研究」として学科の専任教員全員が担当して継続されており、「人間関係」科目を設けた当初の精神の一端が受け継がれている。

  • 「人間関係」のクラス 酒井康教授担当(1971年秋)
    5-61 「人間関係」のクラス 酒井康教授担当(1971年秋)
  • 「人間関係」試験問題 大塚節治嘱託講師担当(1963年)
    5-62 「人間関係」試験問題 大塚節治嘱託講師担当(1963年)
  • 「人間関係」廃止の理由 1971年7月7日教授会資料(カリキュラム委員会提案)
    5-63 「人間関係」廃止の理由 1971年7月7日教授会資料(カリキュラム委員会提案)
  • 「人間関係」講義プリント (1963年)
    5-64 「人間関係」講義プリント (1963年)
  • 「人間関係」討論の授業 (1968年)
    5-65 「人間関係」討論の授業 (1968年)
  • 「人間生活学基礎研究」授業 (2000年5月)
    5-66 「人間生活学基礎研究」授業 (2000年5月)
  • 「人間生活学基礎研究」の授業目標と計画 2000年度シラバス抜粋(人間生活学科)
    5-67 「人間生活学基礎研究」の授業目標と計画 2000年度シラバス抜粋(人間生活学科)

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生活実習ハウス

生活実習ハウス(Practice House)で実施される「家庭管理実習」とは、学生が教室で学んだ理論を実践し、判断力、自主性、計画性を備えた家庭経営能力を養うとともに、人間関係の円熟を涵養するため、教員と学生の宿泊を伴う共同生活を行うもので、家政学原論とともに家政学を学ぶ学生の締めくくりとして4年生を対象に実施された。アメリカでは第1次世界大戦以来、大学教育におけるマネージメントの特別教授法として、宿泊を伴う実習館コースが設けられ、1959年にはこのようなコースがアメリカにおける学位認可家政学教育機関の約4分の3の学校で実施されていた。
本学では、1960(昭和35)年から1967年まで学芸学部家政学専攻の学生は全員必修とし、1965年の家政学科・食物学科分離後も1976年までは両学科とも必修とした。その後食物学科は選択となり、1979年までは家政学科も選択科目としていた。しかし1980年からは家庭管理学演習に移行し、実習ハウスでの実習はとりやめられた。
本学で初めて生活実習ハウスを実施する目的について、竹ノ内ユキ助教授は加藤謙爾学長宛文書に「家庭管理が『一定の住まいの中で、家族が幸福な生活を営み、社会人として立派に生き抜くための家庭経営の理念や方法を研究する』学問であるから、教師指導の下に、学生を一定期間生活実習ハウスに宿泊せしめて、既習の人文・自然・社会の基礎科学並びに家政専攻科目の各々知識を家庭生活を行うために、総括的に把握しこれを統合し、制御し、運営することを各自に体得させて家庭管理の成果を上げようとするものである」と記している(5-71参照)。
長年にわたる実習担当者紀嘉子教授によると、本学の生活実習は、ホーム・マネージメント教授法の発達段階によって大きく3期に分けられ、とくに初期(1960~65年)には、学生と教員がそろって夕拝を行い、日曜日には同志社教会の礼拝に出席するという日課を守り、キリスト教を中心とする生活を目指していたという。さらに、「人々が互いに知り、認め合い、尊重する」、「正しい生活を求め、実現する」というアメリカ家政学のスピリットが根づいた生活を体得させたいという願いが込められ、家庭管理の理論を実習を通して実践し、科学的な生活文化の創造を目指すというものであった。
実習は初めのころは12名の小グループで2週間、のちには10名で10日間宿泊し、献立表の作成、食材の買い出しから栄養を考えた食事づくり、掃除など生活の実習を行い、1グループにつき1度は教員や同窓生を招待して、歓待の計画・実行・評価を行った。
また、1960年10月から61年には、片山登美子実習副主任が常住し、学生と寝食をともにしながら、竹ノ内実習主任や顧問(久次米哲子・別所秀子・大西マサエら教員)の指示によって直接学生を指導した。1962年から63年は竹ノ内の指導のもとに紀嘉子が実習にあたり、1964年以降は紀が担当した。1962年からは1グループの実習期間中、最初の1日と中間の1日を宿泊し、後は昼の時間中にミーティングを行い指導した。
実習ハウスは、1960年から61年には元学寮としてのちに総長公舎に使われた桜橘寮を転用し、1962年から68年には、女子大所有の楽真館北隣の学外一戸建て民家(元河村邸)を一部手直しして使用し、1969年から70年は学内グラウンド南側の第二プリンプトン寮の老朽建物を台所のみ手直しして使用した。1971年から76年には常盤寮東隣の元第二活水寮の建物を実習ハウスとして改築し、一戸建てで専用庭のある家屋で実習を行った。しかし、1976年からは宿泊せずに実習のみとし、1977年は実習ハウス、78年は研究室における時間割に組み込んだ半期間実習に変わった。
このように1960(昭和35)年10月の開館以来、18年間続けられた生活実習ハウスを1977(昭和52)年に閉じた理由のひとつは、直接的には家政東館を取り壊して女子中学高校のグラウンドの一部とし、常盤寮、実習ハウスの跡地に心和館を建設するという校地利用の問題であり、また1980年には学内寮がすべてなくなるという防犯上の問題もあった。ふたつは、時代とともにホーム・マネージメントの重点が「意思決定重視」に移り、文化と社会性の強いものへと発展し、生活実習を必要としないものに変化したことと、家政学部のカリキュラム変更に伴い、家庭管理実習が家庭管理学演習へ移行したことによるものであった。
結局、「実習ハウスとして最初から設計された建物を持ちたいという家政学部全教職員・学生の切なる願い」(林淳一家政学部長「家政学だより」『しばぐさ9』)は最後まで叶えられなかったが、生活実習ハウスは、それを体験した卒業生にかけがえのない多くの思い出を残して、その使命を終えた。

  • 「生活実習ハウス」の生活時間 竹ノ内ユキ・紀嘉子「生活実習ハウスに於ける学生の生活時間構造について」『学術研究年報』第14巻参照(1963)
    5-68 「生活実習ハウス」の生活時間 竹ノ内ユキ・紀嘉子「生活実習ハウスに於ける学生の生活時間構造について」『学術研究年報』第14巻参照(1963)
  • 生活実習ハウス(元桜橘寮) 桜橘寮は閉寮後、総長公舎となり、1960~61年にかけて実習ハウスとして使用
    5-69 生活実習ハウス(元桜橘寮) 桜橘寮は閉寮後、総長公舎となり、1960~61年にかけて実習ハウスとして使用
  • 授業を終えて実習ハウスに帰る学生 1962~68年には、楽真館北隣の民家を実習ハウスとした(1965年)
    5-70 授業を終えて実習ハウスに帰る学生 1962~68年には、楽真館北隣の民家を実習ハウスとした(1965年)
  • 「生活実習ハウス」設置趣意書 実施に向けて加藤謙爾学長に提出された
    5-71 「生活実習ハウス」設置趣意書
    実施に向けて加藤謙爾学長に提出された
  • 洗濯を終えてほっと一息 1965年卒業アルバム
    5-72 洗濯を終えてほっと一息 1965年卒業アルバム
  • 「生活実習ハウス」での授業 担当 紀嘉子(1967年)
    5-73 「生活実習ハウス」での授業 担当 紀嘉子(1967年)
  • お客様をお招きして(1963年)
    5-74 お客様をお招きして(1963年)
  • 食事の後片づけ(1963年)
    5-75 食事の後片づけ
    (1963年)

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LL教育

1960年秋、LL(Language Laboratory)を作り語学教育を充実させたいという、当時の英文学専攻主任越智文雄の依頼を受け、1961年母校に着任した岩井和子助手を中心に、本学のLL教室による語学教育がスタートした。LLとは「言語の修得が先ず、聞く、話す力の基礎の上に立っていることを認め、機械を手段として、その訓練の量や質の増加、向上を計ることを目的として作られたもの」(『しばぐさ』5)と定義づけられた語学視聴覚教室である。
1960年当時、文字を重視していた文学専門の学科内で、言語教育における音声的要素の重要性を主張し科学的にアプローチしていくことは多難であった。そのような状況のなかで、戦時中LLを使ってアメリカ人に日本語を教えたこともあるE. L. ヒバードをはじめ、吉川順、小田幸信、中村貢、越智文雄らといった、かねてよりLLの必要性を主張し、LL教育の理解者であった教員のもとで、かつて公立中学校で音やコミュニケーションを重視する教育を実践してきた岩井が経験を生かしてその推進・実行者となった。
まず各種機器特性の研究、学生の語学力分析、ヒアリング、発音の弱点強化のパイロットプログラム、教職課程履修者に対する新指導法への啓蒙、LLライブラリー用教材のテスト貸し出しなど、入念な下準備を経て、1964年、楽真館新築に伴いLL教室が設置された。しかし、当時の英文学専攻の学生は1学年400名近くもおり、1,200名を対象にLLがひとつあっても十分に効果をあげられないことから、最初からライブラリーの併設が考えられた。また、LL設備ができてからLL教育のために以下のようなLL委員長をはじめとする運営組織が作られた。その組織は語学系担当者からなるLL委員会と、音声学、教科教育法および会話系の指導を分担するプログラミング・コミッティ、機械保守管理、LL教育事務、プログラム制作を担当するLL教育スタッフの3組織で構成された。
本学のLL設備では、語学テストの正答率や解答傾向を見るためのアナライザー、VTR、当時の録音用テープレコーダーより多機能をもったマグナファックスやビスタフォンテ等の特徴ある機器を他大学より約5年早く活用しはじめた。これらのLL機器を用いた授業や諸活動が積極的に展開された。たとえば1年生では会話、音声学、2年生でオーラル、スペシャルオーラル、教科教育法、3年生で教科教育法を通じて音声重視の語学教育が進められた。こうした教育の評価の一環として、アチーブメントテスト、オーラルイングリッシュのクオリファイングテスト、イングリッシュ・レコグニションテスト、プロフィシェンシーテストなど各種のテストを開発し、大学英語教育学会(JACET)のテストも含めて実施していた。

LL教室の隣に設けられたオーディオルームは主として4年生はシェイクスピア劇の練習や「通訳」の授業の復習、3年生が「英文学形態」の復習に、その他音声を取り入れた文学鑑賞や英語の練習に学生が自由に使用した。学生にとっては、それまでは文字だけで読んでいた文学作品を感情移入を伴った朗読を通じて味わえるようになり、鑑賞力を深めることができた。また、LL授業で使用した教材テープを繰り返し復習し自習することによって弱点補強し、学生がおのおののレベルに応じて独自のペースで語学力を高めることができた。文学作品のレコードや音声教材テープの数においては他大学をはるかにしのぐものであった。
学外対象の活動として1965年7月、LL教室にて本学スタッフが講師となり京都市教育委員会主催で、公立中学校教員対象の英語講習会が開かれた。同年8月には同窓会主催による英語講習会を開催した。また言語ラボラトリー学会(LLA)全国大会において2度、本学のLL教育の取り組みと英語教育における問題点の実践的研究結果について発表し、大学英語教育学会全国大会ではビデオを用いた教育実習反省会プログラムを発表し、いずれも当時としてはLL機器を活用した指導法を先取りするものであった。
本学LL教育プログラムの特色としては、当時の最先端機器導入だけでなく、以下の4点があった。

  1. 1. 英語教育における日本人の音声学的困難点を研究分析し、それを克服するために教育効果をいかに高めるかという点で機械のハード面と指導法のソフト面の両方で本学独自の工夫をした点
  2. 2. オーディオテープに各学生の音声を録音して個人指導を行い、再収録し、それをもとに再び個人指導を行う、今度はさらに身ぶりをつけたものをビデオ録画し、個人指導、再録画、再指導というふうに、きめ細やかな指導によって学生の語学力を伸ばした点
  3. 3. 他大学にさきがけて、学生の教育実習や現場教師の授業風景をビデオに収録して英語教科教育法の授業で教材として分析し利用した点
  4. 4. オーディオルームを文学、言語、文化と多目的に活用した点である。

そして外部に向けてはLL教育紹介ビデオとLL機器活用法ビデオを作成してLL教育の普及の一端を担った。このような高水準、高密度で始まった今出川校地のLLは本学の伝統となり、その約20年後の田辺校地のAVセンター構想に生かされることになった。

  • LL教育 担当 中島和子(旧姓岩井)
    5-76 LL教育 担当 中島和子(旧姓岩井)
  • LL教育推進者 E. L. ヒバード
    5-77 LL教育推進者 E. L. ヒバード
  • LL教室の授業 (1974年~75年ころ)
    5-78 LL教室の授業 (1974年~75年ころ)
  • オリエンテーションのビデオづくり
    5-79 オリエンテーションのビデオづくり
  • LL授業 (1974年~75年ころ)
    5-80 LL授業 (1974年~75年ころ)
  • LL授業 吉川順(左)
    5-81 LL授業 吉川順(左)
  • LL調整室
    5-82 LL調整室

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北海道修学旅行

1954(昭和29)年、女専時代に行われていた北海道旅行を女子大学第2回卒業生の時から復活した。例年希望者二百余名に教員6名が付き添い参加していたが、教員側に相当の負担を要したため、1963(昭和38)年に交通公社主催、女子大学後援という形で、特別列車仕立ての旅行に切り替えることになった。公社側からは医師、看護婦、公社員6名が付き添い、本学からは学生課長、教員3名が同伴し、学生委員の自主的な準備や参加もあって旅行は無事成功に終わった。
その後、学生数の増加に反して、参加希望者が年々減少し、1966年には12年間続いた旅行についに終止符が打たれた。復活当時は学生自ら旅行を自由に楽しむ余裕や機会も少なかったので、この旅行は4年生が学生生活最後の夏に北海道の大自然に親しみ、旅を通して教員とふれあえる良い機会であった。しかし、次第に活動的になった学生にとって、北海道旅行は自ら計画し実行できる旅行となり、しかも海外旅行を考える時期になったことから、本学が関わる国内旅行の意味が失われてきたのは時代の趨勢であった。

  • 北海道修学旅行計画表 地図 (1964年)
    5-83 北海道修学旅行計画表 地図 (1964年)
  • 行程(同計画表)
    5-84 行程(同計画表)
  • 「北海道旅行のしおり」 (1958年)
    5-85 「北海道旅行のしおり」 (1958年)
  • グループ紹介の記事 (同上しおり)
    5-86 グループ紹介の記事 (同上しおり)
  • 北海道旅行出発 京都駅(1962年7月)
    5-87 北海道旅行出発 京都駅(1962年7月)
  • アイヌの村を訪ねて (1962年7月)
    5-88 アイヌの村を訪ねて (1962年7月)
  • 昭和新山 (1961年7月)
    5-89 昭和新山 (1961年7月)
  • 函館駅待合室で小憩 (1954年7月)
    5-90 函館駅待合室で小憩 (1954年7月)
  • 帰途の車中 (1954年7月)
    5-91 帰途の車中 (1954年7月)
  • 新島襄脱奔記念碑(1958年7月)
    5-92 新島襄脱奔記念碑(1958年7月)

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学生運動とデモ行進

1969(昭和44)年は全国的に大学改革が叫ばれ、激しい学園紛争が続いた年であった。本学では紛争はなかったものの「学生運動はかつて見られなかったほどの活発さを示し、学生部にとっては繁忙をきわめた1年であった」と『しばぐさ』9号に述べられている。とくに「大学の運営に関する臨時措置法案」をめぐって、6月23日から26日にかけて展開されたいわゆる大学立法(大学管理法案)反対の行動は、女子大学においては1960(昭和35)年6月15日に「安保問題」について学生会が授業放棄を決議し、約280名が円山公園集会デモに参加して以来の学生運動として現れたものであった。
6月23日には、午後の授業休講によるクラス討論と1,887名(『同志社女子大学学生新聞』第65号)の参加者を得て学生大会が開かれ、「大学立法」反対のための全学1日ストを26日に行う方針が決定された。翌24日はランチタイムに芝生で、学生会の常任委員会主催抗議集会の後、教職員に呼びかけて学内デモが行われた。一方、学生大会における議事進行や常任委員会の「大学立法」のみを取り上げる方針に反対の立場をとる大同志社構想粉砕同志社女子大学全学闘争委員会は「大学立法粉砕!70年安保粉砕を1日ストを契機に闘いぬこう!」とのスローガンを掲げて五十余名が独自の集会を開き、円山公園まで単独デモ行進した。25日には教授会として「学生大会において、全学ストライキをすることが決議されたことは遺憾であるが、諸般の事情を考慮し、止むをえず26日を全日休講とする」旨の公示を出した。26日には全日授業休講のなか、午後からの学生会主催の抗議集会に続いて、千名ほどの学生が3派(民青、全学闘、その他)に分裂して女子大学単独のデモ行進を行った。

「大管法」については、大学紛争をきっかけとして、大学の運営に対する政府の介入、ないし政府の大学支配を企てるものとして、5月22日に出された同志社大学長代行遠藤汪吉による反対声明を皮切りに、同志社大学各学部でも反対運動が活発になり、女子大学教授会も越智文雄学長名で6月10日に反対の意志を文書で表明し、さらに6月27日には衆参両院議員に反対声明文を送付した。
6月29日、「同志社教会青年会」のグループ20名が同志社教会の姿勢を問うとして午前0時から午後8時まで栄光館を封鎖した。また同志社大学では長期にわたって建物の封鎖や破壊といった激しい学生運動が続いたが、女子大学では学生部と常任委員会との会見を続けながらも大きな混乱はなく、10月10日の創立記念式や女子部バザーが学園事情から中止される中、11月には「体温の歪み」をテーマに女子大学のEVE行事が無事終了するなど通常どおりの活動が実施されていた。

  • 学内デモ行進 学生会集会後(1969年6月24日)
    5-93 学内デモ行進 学生会集会後(1969年6月24日)
  • EVEパネルディスカッション「70年安保に向かって!」頌啓館(1968年11月22日)
    5-94 EVEパネルディスカッション「70年安保に向かって!」 頌啓館(1968年11月22日)
  • 「大学管理法」反対学生集会 6月24日 ランチタイム 芝生庭
    5-95 「大学管理法」反対学生集会 6月24日 ランチタイム 芝生庭
  • 全学ストライキ集会 (6月26日)
    5-96 全学ストライキ集会 (6月26日)
  • 学生運動関連の記事 『同志社女子大学学生新聞』第65号(1969年7月10日発行)
    5-97 学生運動関連の記事 『同志社女子大学学生新聞』第65号(1969年7月10日発行)
  • 同志社創立100周年記念記章
    同志社創立100周年記念記章
  • 栄光館小礼拝堂
    栄光館小礼拝堂



記念写真誌 同志社女子大学125年