同志社同窓会の結成

同志社女学校は1882年に最初の卒業生5名を出してから、以後断続して数名ずつの卒業生を送っていたにすぎなかったが、1892年には未曾有の24名という多くの卒業生があり、ようやく同窓生の組織化を考慮し得る時期を迎えていた。卒業生のみならず「多年本校の空気を吸ふたる者の有志」を加えれば66名、翌年6月の卒業生を合わすと82名、なお入会交渉中の者もあり、総数を100名にもっていくのも遠からずという見通しが立った(松浦政泰「前学年女学校報告」『期報』1)。ここにおいて同窓会設立準備委員会として海老名みや(弾正夫人)、湯浅はつ(治郎夫人)、能勢道(第5回卒業生、同志社女学校舎監、教師を経て安次郎夫人)の3人が選出され規約草案、諸事業などの検討が始められた。かくて、1893年6月28日、いわば創立総会にあたる同窓会第1回年会が挙行されたのであった。
『同志社女学校期報』の第1号の「同窓会記事」には「創立以来第一回の年会の事とて頗る盛大なりき」と報告されている。記事をたどれば、この日各地から参集した会員は37名であり、午前中からまず4件を決議している。前年9月に開設された新島文庫(女学校図書室)は同窓会の事業とすること、「女学校同窓会報告」の毎期1回の出版、来たる1895年を期して京都に大会開催および会員の写真一葉を学校へ寄附することなどである。ついで会則の修正を討議、議決し、夜に至るまで懇談、余興があり、「月下庭園に食を共に」して「一同快を尽くして散じた」のであった。「明治十八年事件」の体験者ないしその周辺の人びとにとって母校に集う感慨は大なるものがあっただろう。以後は6月下旬から7月上旬、ほぼ母校の卒業式にあわせて、その前後に年会を開催している。こうして、女学校当局と不即不離のもとに同窓会活動が軌道に乗ることとなった。発足時の会員数は『同志社女学校期報』第1号によれば、第10回までの卒業生69名(内2名永眠)と同窓会会員27名の名簿を掲載し、両者の「合計96名を現時の同窓会員とす」としている。

  • 『同志社女学校期報』 第1号、1894年1月創刊
    2-76 『同志社女学校期報』 第1号、1894年1月創刊

このページの先頭へ

『同志社女学校期報』の刊行

同窓会規則第8条は「本会の事業なる『新島文庫』の拡張並に本会機関誌『同志社女学校期報』の編修は本会委員女学校職員と計て之をなすべし」とある。ここに挙げた期報の刊行は1894年1月に実現する。第1号の編輯人は同窓会委員竹内多計子、発行人は女学校教頭松浦政泰であり、表紙には「同志社女学校同窓会」と記し、奥付の発行所は「同志社女学校」となっているが、まさに第8条の具体化といえる。この点について、巻頭でつぎのように断っている。「此期報は同志社女学校の名を冠すれども其実女学校を代表するものにあらず単に校内同窓会が其機関として毎期一回発刊し一には校内の事変を報告して之に対する同情を養ひ一には各自の消息を交換して其親睦を全ふするものなり」(「本誌の性質」)。
第3号からは松浦が編集人発行人を兼ねる。「女学校報告」は初めから松浦が筆をとっており、『期報』刊行の発案も具体化も彼を抜いては考えられない。ただそのアイデアは先行した神戸女学院の『めぐみ』(1890年創刊)に求めていなかったであろうか。両校が姉妹校的交渉をもち、これらの機関誌が類似した機能を果たしていたからである。その性格は「本誌の性質」に記されたとおりであるが、学校側の行事、人事、統計などの克明な報告と、同窓会員の詳細な消息を伝え、個々人の事業、修学、結婚、出産、永眠、転居および雑件などに及んでいる。しかし単にそうした機能に留まらず、これに論説、文藻などを加えた文化的刊行物となっている。このスタイルは号によって濃淡の差はあるが、1911年の松浦の引退(『期報』16)後も、ほぼ継承されている。
ただ大正中期、女学校に学友会が組織され、編集に参加するようになったり、同窓生の増加に伴う内容、性格上の変化があった。誌名も1897年からは『女学校期報』(第9号)になり、1930年には『同窓会学友会期報』(第55号)、1936年に『同窓会報』(第62号)、1939年には『学友会同窓会報』(第68号)と改められるなどの変遷があった。1942年12月、太平洋戦争開戦1周年の第72号の後記には「紙の節約上今後会報をお送りすることが出来るかどうかわかりませんが兎に角も本年は出すことを得て喜んで居ります」と記して、結局事実上の最終号となった。第73号は1942年以来の中断の後、戦後の1948年に至って、従来の雑誌ではなくタブロイド型8ページの形で1号だけ刊行されている。また第61号と第62号の間に『創立六十周年記念号』が号数なしで刊行されており、これを加えると合計74冊になる。
ともあれ明治中期から昭和戦時下に至る約半世紀の間、学校と同窓生を結びつける上で大切な役割を果たしたのであったが、期せずしてそれは同窓会を含めて同志社女子部の歴史を記録し続けてきたわけであり、今も将来も女子部の歴史にさかのぼろうとするときには、欠くことのできない貴重な資料となっているのである。

  • 資金募集趣意書 (『同志社女学校期報』第2号1894年6月)
    2-77 資金募集趣意書 (『同志社女学校期報』第2号1894年6月)
  • 同志社女学校同窓会広告 (『同志社女学校期報』第1号奥付)
    2-78 同志社女学校同窓会広告 (『同志社女学校期報』第1号奥付)
  • 能勢道子 同志社同窓会初代会長(同志社女学校本科1887年6月卒業)
    2-79 能勢道子 同志社同窓会初代会長(同志社女学校本科1887年6月卒業)
  • 資金募集委員名簿
    2-80
  • 佐伯小糸 第3回同窓会基本金委員会(1911年)委員長(同志社女学校普通科1893年6月卒業)
    2-81 佐伯小糸 第3回同窓会基本金委員会(1911年)委員長(同志社女学校普通科1893年6月卒業)

このページの先頭へ

同窓会の事業

同志社女子部の図書館は、少なくとも1935年前後まで「新島文庫」と呼称していた。このころの学校要覧には、新島文庫において、「教科書外ノ教授参考書類ヲ随時ニ閲読スルコトヲ得セシム」とある。前述のように、これを同窓会の事業と決め、以後の文庫の充実には同窓会の力にあずかっている。初期の『女学校期報』には収書の記録を書名、寄贈者に至るまで詳しく記し、文庫が女学校のもっとも知的な空間となって、生徒をひきつけていた状況もしばしば報じている。また『女学校期報』の刊行そのものが若い同窓生たちにとって大事業であったにちがいない。同窓会の事業がこうした分野において始められていることは特筆してよい。
同時に、同志社同窓会がその事業として最大の力を注いだのは、母校のために資金を得ることであった。同窓会史の大半は、苦闘の募金運動史であったと言えるかもしれない。その無私の献身は同志社女子部に係る一人ひとりが銘記すべきことであろう。同窓会創立以前から、卒業生たちは女学校の存亡に係るような経済的困難のたびに、資金の募集に従ってきた。同窓会発足早々の1894年3月、女学校は1年を期して千円の募金を企ててその趣意書を公にしている。このときも、同窓生は学校と一体となって協力した。『女学校期報』第2号(1894年6月)の巻頭には、格調高い趣意書が再録されている。
募金の意図は、一時の急を救うだけの経常費中の寄附ではなく、学校の基礎を固めるための資本金をつくることにあった。1892年秋、上州安中の一婦人が匿名で資本金のために10円を送ったのが契機とされる。資本金募集委員には同窓会委員も含めて、松浦政泰、中村栄助、大澤善助、湯浅治郎ら23名が名を連ねている。『女学校期報』第3号(1895年1月)には、予約を合わせて571円44銭3厘に達したことを、湯浅初子の安中、土倉政子のアメリカにおける募金の紹介などとともに報告している。さらに、満期までに予定額を募集すること、数年間を期して三千円を目指すことなどの決意が語られている。以後の号にも継続して募金対策や経過が、その呼びかけとともに記載されている。
こうした基盤を背景に、母校創立「二十五年期を祝するとゝもに広く江湖の賛助を仰ぎわが校の基礎をして倍堅確ならしめんが為め」の同窓会独自の募金事業に着手することになるのである。1903年9月、同志社女学校同窓会員一同の名をもって、「我等三百の卒業生と百五十の教員生徒は今や内外相呼応して振ひ立てり」、「我が国の女子教育界に一種特別の貢献をなすの時期を近づかしめよ」と、およそ二千二百字に及ぶ「同志社女学校資金募集主意書」を公にしている。
この年から1914年まで十余年間の成果は、「同志社大正三年度報告」の資産管理委員報告によれば、1万1,371円13銭に達した。このころの女学校の歳入平均が、およそ1万円前後であったことを考えれば、それほど多くはない同窓生たちの献身ぶりをうかがうことができる。
この事業に段落をつけると、同窓会は早速同窓会自身の基本金をつくるための募金に着手する。1914年3月25日開催の同窓会大会において「同窓会基本金を醵金して以て基礎を固めこれを以て同窓子女の奨学金のため又すべて有益の働きのために準備せん」という発議がなされた。これをうけて、10月12日の評議委員会では、基本金の将来の最高限度を1万円程度におき、当面の目標額を三千円とし、2年間に会員が6円以上を義援することを決め、翌年の大会までの委員長に同窓会長松田道を指名した。1915年3月20日の同窓会大会の議決を経て正式に発足、基本金委員長には佐伯小糸、会計能勢鼎、事務山県久が依嘱された。募金は大正・昭和期を通してバザー、音楽会、模擬店などによっても蓄積し、母校の必要のためにそのつど捧げられたが、とくに栄光館(1932年)、同窓会館と幼稚舎の建築(1940年)において基本金の果たした役割は大きいものがあった。
資本金募集に関連して同窓会が力を入れた事業にバザーがある。その始まりは1903年秋であろう。デントンを介してイギリスからおよそ二千円と見積もられる雑貨が寄送され、資本金の一部に供されることになったが、ただし売上高の3分の1を同志社に寄附するという条件であった。この舶来の雑貨を中心に、果物や西洋菓子を供する者もあって、同窓、教師、在校生一体となっての盛大なバザーが開催されたのであった(『期報』20)。また、1908年のバザーは十分な準備期間をおいて、女学校、同窓会を挙げて10月16、17日の2日間開催した。『女学校期報』第26号は「慈善市記念」と銘打って特集としている。両日の決算は総収入527円82銭5厘、総経費166円9銭、差し引き361円73銭5厘であり、同窓会第2回募集基本金中に繰り入れられた。
バザーはそれ以後も、大正・昭和を通して断続し開催され現在に及んでいる。ただし1969年は全国各地で大学の紛争が起こり、同志社でも例年栄光館で行っていた創立記念式および女子部バザーは中止された。翌年には再開されたが女子大学はバザーには参加せず、以後は同窓会、女子中高、幼稚園および父母の会によって開催されている。女子大学の不参加は、かつて全同志社で催されていたEVE行事が次第に大学のものになり、女子大学でも学生によるEVE実行委員会が1958、9年ごろに組織されていたが、1962年度学年暦に女子大学独自のEVEが位置づけられたことが背景にあった。学生たちは女子部大バザーよりも自分たちのEVEに力を入れようとしたのだろう。

  • 竹内多計 『同志社女学校期報』編輯人(同志社女学校本科1892年6月卒業)
    2-82 竹内多計 『同志社女学校期報』編輯人(同志社女学校本科1892年6月卒業)
  • 同志社女学校同窓会基本金募集委員 (1903年)
    2-83 同志社女学校同窓会基本金募集委員 (1903年)
  • 基本金募集慈善市広告 (1908年7月)
    基本金募集慈善市広告 (1908年7月)
  • 同志社女学校同窓会員 (1907年)
    2-85 同志社女学校同窓会員 (1907年)
  • 同志社同窓会主催講堂建築募金バザー (1930年5月2日、3日)
    2-86 同志社同窓会主催講堂建築募金バザー (1930年5月2日、3日)
  • デントン博士祝賀会 ウィリアム・カレッジより教育学博士号受贈を祝し、彼女の誕生日を選んで都ホテルで祝賀会(1931年7月4日)
    2-87 デントン博士祝賀会 ウィリアム・カレッジより教育学博士号受贈を祝し、彼女の誕生日を選んで都ホテルで祝賀会(1931年7月4日)
  • 同志社女子部バザー (1935年ころ)
    2-88 同志社女子部バザー (1935年ころ)
  • 同窓会総会余興 栄光館ファウラー講堂、京都童踊研究所主催の童踊(1936年3月21日)
    2-89 同窓会総会余興 栄光館ファウラー講堂、京都童踊研究所主催の童踊(1936年3月21日)
  • 同窓会総会茶会 (1936年3月21日)
    2-90 同窓会総会茶会 (1936年3月21日)
  • 京都支部銃後の仕事会 (1937年9月20日)
    2-91 京都支部銃後の仕事会 (1937年9月20日)

このページの先頭へ

同窓会支部会の結成と法人同志社理事選出

最初に支部会を組織したのは大阪であった。1897年5月、大阪在住の会員十数名をもって、会長に小林初子を推して発足している(『期報』8)。続いて9月に東京、11月に京都、翌々年2月に神戸にそれぞれ支部会が組織された。東京支部会第1回集会は、当時同志社を離れていたデントン宅(牛込市ケ谷仲町)で、林外浪の帰国歓迎と同志社女学校赴任送別も兼ねて開かれた。会員は21名、当日参集したのは14名であった(『期報』9)。これ以後『女学校期報』では支部会の消息を掲載するようになる。昭和初期までには、国内各地のほか、海外にもオークランド、サンフランシスコ、台北、京城、大連、奉天などに支部が結成された。
なお従来6月に開催していた年会を3月に移したのは1904年からであり、これは1902年度学制改革によって官立の諸学校が卒業を3月末としていたのに合わせたためであった。
1912年3月の年会で、同窓会の組織を社団法人にすることが同窓会本部から提案された。その理由は、会員増加(当時、卒業生298名、入会者78名、特別会員6名、合計382名、他に死亡者22名)と会計上経常費が100円、基本金が1万円をそれぞれ超過して、その責任を法的に明らかにすることに加えて、男子部の校友会員が同志社財団の理事の大半を占め、「校友会員の意志と同志社財団の意志との疎通甚だ容易」なのに対応し得るような同窓会の位置づけを企図するものであった(『女学校期報』32)。このための45か条の定款草案を用意し、5月に臨時大会を開き、事態の推進を図ったが、同志社理事会の賛成を得られず、「未だ時機の早きものあるを以て暫く時機の至るを待つ事」になったことを、翌1913(大正2)年3月の年会で報告している。しかし、その後1919年財団法人同志社理事選出の選挙権が同窓会にも与えられ、翌年松本亦太郎と松田道が同窓会選出の最初の法人理事に選ばれた。さらに、1925年の同志社寄附行為の改正に伴って、翌年1月には法人同志社評議員を同窓会員中からも選出することになり、第1回評議員に8名が選出され、理事にも3名が選出された。
他方、1925年3月の総会で、1912年の定款草案に近い内容の45か条および規約実施上の内規5か条から成る新しい同窓会規約が可決制定され、社団法人化に託した期待のかなりの部分が満たされることになったと言ってよい。

  • サンフランシスコ同窓会 松岡筆(普通学部1913年、家政科1916年卒業)宅(1924年2月22日)
    2-92 サンフランシスコ同窓会 松岡筆(普通学部1913年、家政科1916年卒業)宅(1924年2月22日)
  • 台北市在住同窓生 吉田君恵(普通学部1924年、家政科1927年卒業)宅(1929年7月29日)
    2-93 台北市在住同窓生 吉田君恵(普通学部1924年、家政科1927年卒業)宅(1929年7月29日)
  • 同窓会京城支部会 土井登美栄(高等女学部1928年、英文科1931年卒業)宅(1937年10月31日)
    2-94 同窓会京城支部会 土井登美栄(高等女学部1928年、英文科1931年卒業)宅(1937年10月31日)
  • 同窓会大阪支部参集会 中山文化研究所(1924年4月26日)
    2-95 同窓会大阪支部参集会 中山文化研究所(1924年4月26日)
  • 内田満鉄総裁夫人歓迎会 大連電気遊園。秋季総会を兼ねて内田政(本科1859年卒業)の歓迎会(1931年9月9日)
    2-96 内田満鉄総裁夫人歓迎会 大連電気遊園。秋季総会を兼ねて内田政(本科1859年卒業)の歓迎会(1931年9月9日)
  • 東京支部会 神田美土代町キリスト教青年会館。湯浅八郎同志社総長歓迎午餐会(1936年1月30日)
    2-97 東京支部会 神田美土代町キリスト教青年会館。湯浅八郎同志社総長歓迎午餐会(1936年1月30日)
  • 名古屋支部発会式 (1936年6月13日)
    2-98 名古屋支部発会式 (1936年6月13日)
  • 阪神同窓会 (1921年5月28日)
    2-99 阪神同窓会 (1921年5月28日)
  • 同志社記章 1893年10月20日制定
    同志社記章 1893年10月20日制定
  • 同志社礼拝堂(チャペル)1886年6月25日献堂
    同志社礼拝堂(チャペル)1886年6月25日献堂



記念写真誌 同志社女子大学125年