私塾時代の同志社女学校

同志社女学校の始まりはいつか

これまで入手しうるスタークウェザーの最初の手紙が1876年11月5日(来日約7か月後)付のものであったことから、京都ホームの始まりの日は1876年10月24日と記述されていた。しかし、最近の宣教師文書研究やウーマンズ・ボード機関誌『女性のための生命と光』のバックナンバーに目を通すことができるようになったことから、当時の京都での女学校の始まりの様子がもっと明確になってきた。
これまでの日本側の記録から、スタークウェザー来日以前、すでに京都で女学校が始まっていたことは知られていた。それは新島未亡人から聞いた話として、「明治9年の頃、私はデビス宣教師と相談の末、女学校を始めては――という事になり、私の宅でいつ開校式があったということなく始めました」(同志社同窓会発行『同志社創立九十周年記念誌』)という記事と、その「時日は明治九年の二月であったと覚へて居ます」(『同志社女学校期報』39.以下『期報』と略記)のふたつである。新島襄と八重はその年1月3日にデイヴィス宣教師の司式により、京都で初めてのキリスト教式結婚式を挙げていた。スタークウェザーの京都入りが4月10日のことであり、以後は彼女が責任者として京都ホームを運営していくことになるのであるが、それ以前の開校日としては1876年2月と定めることが妥当であろう。
それともうひとつ予測されることは、「デビス宣教師と相談の末」始めたのならば、キリスト教による女子教育を目途としたはずであり、だれか婦人宣教師が関わっていたに違いないということである。それに関しては前述した八重の談話にも「私がABCを教へ…デビス氏の奥様の姉君ミセス・ドーモンと云ふ方が教師として教へて下されました」(『期報』39)とあること、さらに『女性のための生命と光』(6巻5号、1876年5月)誌上に載せられた、‘Our Japan Home’という記事が参考になる。それは、前述したアメリカ独立百周年記念募金を「京都の女学校のための募金」とすることを訴える内容のものであるが、その中で、記者は近く日本にホームを作る見通しがあること、それは日本の精神的中核の地である京都に置きたいと述べ、実はすでに京都で女子のための塾がアメリカン・ボードのドーン宣教師夫人(Mrs. Edward Topping Doane)と新島夫人の監督のもとで始められていると紹介をしている。
それゆえ、同志社女学校の前史、家塾としての始まりは同志社英学校が創設された1875年11月29日からわずか2、3か月後ということになる。そして最初に関係したのはドーン夫人(J. D. デイヴィス夫人ソフィアの姉で、デイヴィス一家が1875年10月19日神戸から京都に移ってきたとき、一緒に来ていた。夫 E. T. ドーンは1か月後の11月26日にラーネッド夫妻(Mr. & Mrs. Dwight Whitney Learned)と共に横浜着)と、新島夫人八重であったと確定することができる。「その時の生徒は三人であって、妙な事に九歳になる男の子がいました。他の二人は女の子で姉妹でしたが、残念な事にその男の子は恥ずかしかったのか、中途で止めてしまい、女生徒の姉の方は病気で死に、妹は勉強が嫌になってやめ」(『同志社創立九十周年記念誌』)とドーン夫人と八重の協力で始まった女子塾は自然消滅し、その後はスタークウェザーと八重による京都ホームへと引き継がれていく。

スタークウェザー来日後の女子塾

スタークウェザーが1876年4月10日に入洛したことは前述したが、『女性のための生命と光』(6巻10号、1876年10月)に掲載されている入洛1か月後の手紙は注目に値する。すなわち、「私[スタークウェザー]は新島氏を教師として確保し、5月2日から毎日授業を始めました」(1876年5月10日クラーク宛)の一文である。これまでの歴史記述、10月24日よりも5か月以上早い京都ホーム開始日の報告であり、同志社女学校前史の一部に留めておくべき史実と言える。
10月24日開校を知らせるスタークウェザーの書簡(1876年11月5日)にはもっと詳しい授業開始日の様子が描写されている。「デイヴィス氏が許可を得てこの市に居住するようになってからちょうど1年を迎えた記念日の5日後、10月24日から正規の授業を始めました」との書き出しで、集まった生徒の紹介文が続く。それによると、寄宿生4名・通学生8名の計12名で、内訳は、京都の女生徒2人――「キリスト教信仰に目覚めていた下層階級の父親2人が死亡し、それぞれに娘がいて(1人は7歳、もう1人は11歳)、父親の遺言どおりに京都ホームに連れてこられた。ただし、貧しいので衣類は用意するが、食事と教育は頼む」とのこと――と、熊本バンドから来た英学校の生徒の1人、下村孝太郎の姉妹知喜子と末子、そして、身売りされそうになった伏見の17歳の娘などで、地元で開校が待たれていたとは言いがたい出発であったことが十分にうかがえる。

  • E. T.ドーン夫人 新島八重とともに最初に新島宅で塾を開いた(1876年2月)
    1-55 E. T.ドーン夫人 新島八重とともに最初に新島宅で塾を開いた(1876年2月)
  • 人力車に乗るA. J. スタークウェザーとH. F. パーミリー
    1-56 人力車に乗るA. J. スタークウェザーとH. F. パーミリー
  • 新島八重(1876年ころ)
    1-57 新島八重(1876年ころ)
  • 女学校の始まりに関する新島未亡人の回想記事(同志社同窓会発行『同志社創立九十周年記念誌』)
    1-58 女学校の始まりに関する新島未亡人の回想記事(同志社同窓会発行『同志社創立九十周年記念誌』)
  • 京都ホーム時代から学んでいた生徒たち 前列左から高松仙、本間春、横井宮、後列左から大西静、山本峯
    1-59 京都ホーム時代から学んでいた生徒たち 前列左から高松仙、本間春、横井宮、後列左から大西静、山本峯
  • ウーマンズ・ボード書記ポロック宛スタークウェザー書簡(1876年11月5日付)「10月24日から正規の授業を開始した」と記されている
    1-60 ウーマンズ・ボード書記ポロック宛スタークウェザー書簡(1876年11月5日付)「10月24日から正規の授業を開始した」と記されている

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同志社女学校の正式開校

女紅場から女学校へ

同志社分校女紅場が正式の認可を受けて開校するのは、1877(明治10)年4月23日「同志社分校女紅場開業願」(「京都府勧業課・学務課上申」)届出、同28日認可であるので、本来は4月28日以後となるはずである。しかし実際は、「明治十年四月廿一日、柳原邸内ニ於テ女学校開設ス」(同志社記事「社務第18号」『新島全集』1)の記事を根拠に、女子部創立記念日は4月21日としてきている。
ここで注目しておかねばならないことは、女紅場開業願に付けられた規則の学科目(綴字、正音、作文、文法、算術、地理、理学大意、万国史、修身学、裁縫、日本学)に関してである。勧業課はこれを見て「女紅場」の学科にはふさわしくない、「女学校」と改称すべきとの上申を出した。そもそも女紅と女学は似て非なるもので、「女紅は勧業授産のため」、女学は「婦女子の才芸知識を開達するため」のものである。「新島設立の如き女紅場は名称を転じ女学校と改正すべし」とのお達しで、同年9月に新島は「女学校」とする改称願を提出している。このことは期せずして同志社女学校が創立当初より英学校と同じくリベラルアーツに重きを置く学校であったことを物語る。

女学校初期のトラブル

学校の教科内容をめぐっての名称変更はこのようにして明確にされたのであるが、問題は運営に関してであった。英学校の場合も、新島がラットランドの教会で日本にキリスト教主義大学を建てると訴えて得た募金も含めて、すべてアメリカン・ボードからの援助によって経営されていた。しかし、英学校には新島がいて、彼は「10年間アメリカにいてキリスト教主義大学がどんなものであるかを熟知していた」。それゆえ、宣教師たちとは共通の基盤があったし、たとえ時に意見の相違があったとしても、それを修復する方法も弁えていた。
しかし、女学校の場合は違った。J. D. デイヴィスはクラーク宛書簡の中で、女学校のトラブルをつぎのように分析した。

日本人の中に、女学校についての“Mt. Holyoke idea”(注)を持っているものは1人もいませんでした。日本人とアメリカ人の考えは真向から対立していました。さらにもう一つの困難は、女性に学校経営ができるという考えが日本人には理解できなかったことです。また、アメリカ側のプランでは、女生徒は女教師の家族の一員として考慮されるのですが、その家族の管理をめぐって、いくつもいくつもの日常的な齟齬が生じてきました。つまり、アメリカ人教師がよしとする考え方は、古い日本の考えとは正面からぶつかり合うものだからです(1885年7月6日)。

前述のように、キリスト教主義女子教育の経験者はこの時期の日本では女性宣教師だけである。彼女たちは、家族・友人・故国を捨て、はるばる海を渡って日本に来た。目的は日本の女性にキリスト教の教えを説き、彼女たちを暗い世界から救い出すためである。それゆえ、意欲的であり情熱的であり献身的であると同時に、独善的であり一方的な傾向もあったであろう。
しかも、背後には同じ思いで日夜募金活動に励みつつ、自分を日本に送り出してくれた本国の女性たちがいる。自分には、彼女たちの経済的・精神的支援に対して応える責任がある。また、独身女性宣教師の多くは、出国前は教師の経験者であったり、学校経営の経験のある者もいた。自分たちに対して、本国におけると同じ責任と権限が日本でも与えられるものと思っていた。これはスタークウェザーの思いであり、同時に京都ホームを「ミス・スタークウェザーの学校」であるとするアメリカン・ボードの認識であった。
同志社女学校も開港地にあって、ホームの責任者であるはずの女性宣教師に本国と同じ形で学校の運営が任されていたら、問題はなかったのかもしれない。しかし、同志社女学校は内陸部京都に位置していた。女性宣教師が学校で教えるためには、名目上にしろ日本人社長新島に雇われねばならなかった。そして「新島ですら」、女性が校長になるという考えを受け入れることは難しかった。それゆえ、日本人側の意識はあくまでも「新島の女学校」であった。
スタークウェザーの帰国を目前にして、J. D. デイヴィスがボード本部に送った手紙はそのことを物語っている。

スタークウェザーは来日以来7年が経過しており、その間ほとんどの時間、彼女1人で大変な緊張の下に過ごして来ました。しかも、その緊張は学外というよりもむしろ学内でのことであり、学校がスタートして以来ずっとあった誤解によるものでありました。それは誰かの落度というよりは、学校のスタートの仕方に問題があったのですが、その時点では私たちにはよく分かっていなかった問題でありました。すなわち、学校に2人のヘッドがいたことに問題があったのです。外国人の側は女学校なのだから、当然外国人教師(この場合、スタークウェザー)が首長であると考えていましたが、日本人側では、教師、特に女教師が学校を運営するという考えは皆目理解できていなかったのです。そして、経営者は日本人(この場合、新島襄)と考えておりました。誤解のないように言っておきますが、この件に関して私は新島氏またはスタークウェザーを責めるつもりは毛頭ありません。(……)私としては何れ時間が解決してくれるものと願っていましたが、昨年秋、休暇の後帰任してみますと、事態は以前よりももっと悪化していました(1883年4月14日クラーク宛)。

女学校における新島の影響力はむしろ彼の死後のことと言えるかもしれない。A. J. スタークウェザー、A. Y. デイヴィス、V. A. クラークソン、F. ホワイト、M. H. マイヤーと5代にわたって婦人宣教師が「校長」として在任した同志社女学校創設期の17年間は、女性が女性を育てるという意識が濃厚な時代であった。1893(明治26)年マイヤーが女学校を去って、同志社英学校の卒業生の松浦政泰が単独で女学校の教頭になり、自らが同志社英学校で受けた新島襄の感化を女学校にも定着させようと試みた時から、名実ともに、英学校と女学校は新島を同じ校祖として持つことになったと言えるのかもしれない。しかし、女性宣教師の影響力は、日々の生活を通して直接に接することにより、また、女性宣教師の生き方をロールモデルとして学んだ卒業生を教師として持つことにより、女学校の中には英学校とは一味違った校風が植えつけられ、その校風を意識して引き継いできたのである。

注.Mt. Holyoke idea
マウント・ホリオーク・セミナリーは、1837年メリー・ライオン(Mary Lyon,1797-1847)によって創設されたアメリカ東部の女子名門校のひとつ。同時期の男子の学校に劣らぬ高水準の教育と同時に家庭婦人の養成の両立を目指す教育を行った。卒業生の多くは、リベラルアーツ方式に基づいて養成された教員として、また「他の人の嫌がること」をなし「他の人の嫌がるところ」へ進んでいく伝道者やその同労者(妻)として世界の各地に出ていった。在学中、学生たちは毎日2時間、学内の家事的労働をすることが特色であった。それは「貧しい学生に対しても門戸を開くために学費を一定に押さえること、召使たちに対する差別意識を取り除くこと、生徒自身の身体を訓練することに役立つ」とメリー・ライオンが考えていたからである。現在はMount Holyoke College

  • 『七-雑報』広告 明治12年8月22日号
    1-61 『七-雑報』広告 明治12年8月22日号
  • 新島八重と同志社女学校初期の生徒たち
    1-62 新島八重と同志社女学校初期の生徒たち
  • ウーマンズ・ボードの婦人宛スタークウェザー書簡(1876年5月10日) 「5月2日から毎日授業を開始した」と報告している(『女性のための生命と光』1876年10月号「中部ウーマンズ・ボード欄」に掲載)
    1-63 ウーマンズ・ボードの婦人宛スタークウェザー書簡(1876年5月10日) 「5月2日から毎日授業を開始した」と報告している(『女性のための生命と光』1876年10月号「中部ウーマンズ・ボード欄」に掲載)
  • 浅田たけ同志社女学校入塾寄留届
    1-64 浅田たけ同志社女学校入塾寄留届
    (1878年9月)
  • 「同志社女学校広告」(1878年6月)
    1-65 「同志社女学校広告」(1878年6月)
  • 同志社女学校第1期隆盛期(1880年度)生徒全員集合写真 京都ホーム創立以来孤軍奮闘していたスタークウェザーにとって初めて女学校の陣容が整ったと感じられた年。上段2列目左から 宮川経輝(1人おいて)・スタークウェザー・山本佐久・パーミリー・デイヴィス夫人(ソフィア)・加藤勇次郎。生徒42名
    1-66 同志社女学校第1期隆盛期(1880年度)生徒全員集合写真 京都ホーム創立以来孤軍奮闘していたスタークウェザーにとって初めて女学校の陣容が整ったと感じられた年。上段2列目左から 宮川経輝(1人おいて)・スタークウェザー・山本佐久・パーミリー・デイヴィス夫人(ソフィア)・加藤勇次郎。生徒42名
  • クラーク宛J. D. デイヴィス書簡(1883年4月14日) スタークウェザー帰国を前に7年間を回顧して、J. D. デイヴィスは女学校のトラブルは開校当初よりヘッドが2人いたことであると分析している
    1-67 クラーク宛J. D. デイヴィス書簡(1883年4月14日) スタークウェザー帰国を前に7年間を回顧して、J. D. デイヴィスは女学校のトラブルは開校当初よりヘッドが2人いたことであると分析している

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創設期同志社女学校のキャンパス・ライフ

京都「ホーム」の意味

初期の宣教師文書の中では、「ミス・スタークウェザーの学校」とか「京都ホーム」と呼ばれていた同志社女学校は、ボーディング・スクール(寄宿学校)であった。それは、女性宣教師たちがキリスト教主義女学校にはホームという形態が必須であると考えたからにほかならない。当時の日本においてホームという概念はいまだ目新しいものであったが、宣教師たちは「異教の国」日本にキリスト教的価値観を根づかせるには、教室での授業を通してだけでなく、毎日の生活を通してキリスト教信仰あるいは文化を体験させることが不可欠であると考えた。すなわち、「これらの学校での女性宣教師の働きは、女生徒に徹底して有益な教育を施すのみならず、教養面において、あらゆる種類のキリスト教的訓練をおこなうこと」であり、具体的には「親切で円満な女性らしい性格を養い育てること、身体を大切に扱うこと、うそをつく習慣を止めることを教え、本当の意味の謙遜を身につけ自分の考えを持って行動するように導くこと、そして女性の影響力がどれ程大きいかを示して、自ら慷概心を持ち、自らの人生を神から与えられた賜物・特権として積極的に生きるように訓練する」(『女性のための生命と光』1882年3月)ことが必要との考えが強く支持された。これは日本女性の弱さを熟知した上でのキリスト教徳育のあり方を如実に示すものであり、この成就のためには生活を通して学ぶことが必須であることが納得される。

明治10年代の時間割

ひとつの「ホーム」の運営には最低3人の婦人宣教師が必要と言われる中で、京都ホームは創立以来の4年間、実質スタークウェザー1人の責任で運営されていた。それがやっと「当該年度は京都ホームで初めて教員定足数が満たされ、学校が初めて独立したと言える年であった」と報告されている1880年度の年次報告書をみてみる。この年は、1876年来日して以来、京都が内陸部に位置していたために学校の内外で孤軍奮闘を強いられたスタークウェザーのもとに、英学校卒業生の宮川経輝と加藤勇次郎、それに、1877年に来日してひたすら居住許可の下りるのを待っていたパーミリーが加わって、ようやく4人体制で学校を運営することができた、女学校第1期隆盛期と呼べる年度である。
宮川らによってカリキュラムも整備され、生徒の指導にもよく目が行き届くようになった。学問だけでなく女性としての教養を身につけさせるため、ホーム内では全員に毎日の食事の分担をすることを義務づけているが、そのためには1人の教師が1時間その監督に当たり、給費生は別の先生の監督のもとでさらに2時間働いている様子、昨年初めて市内の女性伝道に取り組むことができ、3グループに分かれて定期的に祈禱会を持っていることなどが報告されている。
そして、大変貴重な、1日のスケジュール表が記録されている。
この年度に整備された学科課程表は『同志社百年史・資料編一』に記載されているが、1日の時間割として、しかもだれが、どの教科を受け持ったかが、これによって初めて明らかになった。『百年史』の学科課程表には、聖書に関する科目は記載されていないが、この時間表では福音書、黙示録、使徒書簡などが毎日学ばれていること、新島の奨励も週に2回はあったこと、歌唱練習、オルガン・レッスン、体操がやはり毎日あったこと、また、この当時の生徒数は30名前後であったが、授業は複式で行われていたことなどがわかる。

明治20年代の寮生活

『つぼみ』に紹介された1890(明治23)年4月の、寮生の1週間のスケジュールはつぎのとおりである。週の初日の日曜日は午前9時-10時 同志社教会の聖日礼拝出席、午後1時半からキャンパス内で安息日学校開校、夕方6時~7時 讃美歌練習、7時~8時 上級生のみ英語の聖書研究とその後30分祈禱会というのが安息日のスケジュール。月曜から金曜の授業日は毎朝7時半から30分の礼拝時間の後、9時~4時が授業時間である。毎日4時~5時は運動遊歩と決められ、月・金は校庭で体操をする。そして、夕食後6時半~7時 もう一度寮生のみの祈禱会があり、しかも火曜は祈禱会のあと8時まで「社会に関する談話」の時間がある。また、金曜の夕方6時~7時は同志社教会の祈禱会に出席、土曜の午後2時~4時は有志で「真働会」を持ち、編物・裁縫など思い思いの手芸をして、孤児教育など慈善事業の寄付金集めをした。しかも、これらすべての集会が寮に住む女教師と上級生の指導によるものであったというが、生活を通してのキリスト教教育がきめ細かに実施されていたことがわかる。
寮生活の個別の感想としては、「常に神は私共の前にいますという念」は「スタークウェザー先生が遺された良風であった」(深田照)、「私共はこんな風に宗教的精神主義のもとに養はれていましたから、十四・五歳の子供ながら日本帝国に対する責任、婦人の使命といふことを常に感じて居りました」(林外浪)、「質素にして労働に重きを置き是を尚ぶという風習は、先生並に生徒間に養はれてありました。故に何事も自治で三度の膳立は生徒の役目にて、夕の炊事には交代に女中の手伝をもしました。食事の後片付けも舎監と生徒が女中を助けました」(海老名みや)、「生徒は姉妹の様に親しみ合ひました。年長者は小さい人達に対しては凡て責任を負ふて善く世話をし、着物の面倒迄見てやりました。又、舎監は一人づつ我子の様に行届いた世話を致しました」(長谷場知亀)(『創設期の同志社―卒業生たちの回想録―』)等々、霊的修養を重視し、人間は平等、労働は神聖の姿勢を貫きつつも、暖かい愛情にあふれた学寮生活であったことが語られている。

  • 1880年度同志社女学校1日の時間割 同年の「京都の女学校報告」の中でスタークウェザーが報告しているもの
    1-68 1880年度同志社女学校1日の時間割 同年の「京都の女学校報告」の中でスタークウェザーが報告しているもの
  • 校庭での体操 なぎなたの稽古
    1-69 校庭での体操 なぎなたの稽古
  • 1880年度同志社女学校学科課程表 この年から予備科・本邦科・英書科と学科課程も整備された
    1-70 1880年度同志社女学校学科課程表 この年から予備科・本邦科・英書科と学科課程も整備された
  • 林外浪 第6回(1888)卒業。この時期、林は助教としてホワイト「校長」を助けていた
    1-71 林外浪 第6回(1888)卒業。この時期、林は助教としてホワイト「校長」を助けていた
  • 広瀬恒 第4回邦語科、第7回本科卒業
    1-72 広瀬恒 第4回邦語科、第7回本科卒業
  • 高松新 第6回(1888)卒業。林らとともに女学校助教をしていた
    1-73 高松新 第6回(1888)卒業。林らとともに女学校助教をしていた
  • 第7回女学校卒業式(1889年6月)教師はウェンライト(左)とホワイト(右)、後列に新島夫妻と浮田和民、生徒は前列左から加藤徳、広瀬恒、横田増、後列左から竹内梅、土倉政
    1-74 第7回女学校卒業式(1889年6月)教師はウェンライト(左)とホワイト(右)、後列に新島夫妻と浮田和民、生徒は前列左から加藤徳、広瀬恒、横田増、後列左から竹内梅、土倉政
  • M. F. デントン(第1期1888 .10-1896. 6)
    1-75 M. F. デントン(第1期1888 .10-1896. 6)
  • F. E. グリスウォルド(1889. 10-1890. 4在任)
    1-76 F. E. グリスウォルド(1889. 10-1890. 4在任)
  • 『つぼみ』1890年4月号に紹介された同志社女学校記事
    1-77『つぼみ』1890年4月号に紹介された同志社女学校記事

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同志社女学校「明治十八年事件」

「事件」の発端

「明治十八年事件」とは、日本ミッションの第13回大会(1885年6月12~17日神戸ジェンクス宅)で、以下の案件が議決されたことを発端としている。

京都の女学校は特有の状況ゆえに創設以来ほとんど絶え間ない批判――長年に渡っての手痛い経験が、これ以上教師の側でどんなに献身しても乗り越えることはできない事を示すほどの批判――にさらされてきた。
かくて「日本ミッションは教師の引き上げを認め、学校を一時閉鎖することについて京都ステーションに同志社と調停することを認可する」(1885年6月日本ミッション大会議事録)

同志社の側としては、これは「寝耳に水」であったようで、たとえば『同志社九十年小史』の中では、「突如として」、宣教師団が「短気にも」起こした事件と位置づけられ、新島襄第2回外遊中に「創立後日なお浅い女学校を見舞った最初・最大の危機」であるとともに、「学校運営における日本人教師の主権を確立した画期的な事件」であったと記述されてきたものである。  しかし、宣教師文書を通して、それまでの経緯が子細にたどれるようになった今、この事件は「明治初期に京都で起こった異文化摩擦のケース・スタディ」にふさわしい事件であったことが判るのである。

「事件」の推移

1885(明治18)年当時同志社女学校にいた女性宣教師は、J. D. デイヴィスの姪のA. Y. デイヴィス(マウント・ホリオーク・セミナリー卒)とF. フーパー(Frances Hooper)であった。A. Y. デイヴィスは1879(明治12)年に来日し、兄一家とともに神戸に住んでいたが、病気にかかったりした関係で任地決定が遅れていた。
1882年2月、体調を崩して床に就くことの多くなっていたパーミリーの代役としてA. Y. デイヴィスはスタークウェザーを助けるために京都ホームに来たのであるが、結局パーミリーの一時帰国が同年7月と決まり、彼女は正式に9月から京都ミッション所属となった。さらに翌年、スタークウェザーもラーネッド夫人の療養帰国に付き添って帰国することになり、事件前の2年間は彼女がスタークウェザーの後任として京都ホームの責任者の地位にいた。
京都ホームの内部では、彼女の着任以前から、「2人のヘッド」問題および「山本佐久・新島八重対スタークウェザーの確執」問題で、決して順調なホーム運営はできていなかったが、人が変わればうまくいくかも知れないとの期待感があったことも確かである。
1885年7月6日、J. D. デイヴィスはクラーク宛書簡の中で、つぎのように書いた。

そこで、スタークウェザーに帰国してもらい、A. Y. デイヴィスとフーパーとの新しい陣容のもとに、「女学校の日本人関係者全てと話し合い、今後学校内部の全ての事柄に関しては外国人女性が完全かつ絶対的な支配権を持つという新たな合意」に達しました。
そして、この変更でこれまでの誤解や困難が乗り越えられることを期待しました。しかし、1年経っても事態はほとんど全く改善されなかったので、もうこのような試みは中止したほうが良いという意見がミッションの半数に達しました。それでも残りの半数は改善をまだ期待していましたので、決断をもう1年待つことにしました。しかし、やはり改善されることもなく、その上、学校の長であったミス・デイヴィスの評判は日本人とのことで傷つき、もうこれ以上、同じ過程が繰り返されるのを見るに忍びません。

以上のあらましがリアルタイムでボード本部に報告されていた「明治十八年事件」の経緯である。ボード側は話し合いで相互の了解は得られたものと信じて、明治16年に再出発したのであるが、日本人側は話し合いの結果を真摯に受け止めていなかったということであろう。だから、ボード側がやむを得ず下した決断である「一時閉校の通知」を、日本人側が「突如として」「短気にも」決められたとしか受け取れなかったのである。

「事件」の結末

この事件の対応を日本側資料は、宣教師団の宣告に日本人教師は狼狽し、女生徒は「『かたみの松』の陰にひざまづいて涙の中に再開を祈り、嘆願書を校長代理(新島は外遊中)に提出し、」「京都の諸教会の牧師が会合して新学期からの開校を決め」、ボードに校舎の使用許可を申し入れ、9月1日よりともかく開校の運びになったと記述している。しかし、「明治十八年事件」の結末に対して「学校運営における日本人教師の主権を確立した画期的な事件」(『同志社九十年小史』)「娘の赤心は天にとどいて、9月には全然外国人の手を離れ、日本人のみで再興という好時節の到来」(松浦政泰『同志社ローマンス』)と締めくくるのは必ずしも正しくない。
前にもふれたとおり、キリスト教女子教育を実践するには、まだこの段階では、クリスチャン女教師(女性宣教師)に頼らざるを得なかった。そこで、同志社の日本人教師は日光で休暇を過ごしていたフーパーに8月早々復帰を依頼する手紙を出し、一方、中島末治教頭は、健康を回復し再来日してきたV. A. クラークソンを横浜で待ち構えて、同志社女学校の教師就任依頼をしなければならなかった。クラークソンは神戸英和女学校の校長を勤めた女性でもあり、「学校生活・寮生活・人格教育等の責任は全て私になければなりません」、「私には同僚が一人必要です」(1885年12月14日チャイルド宛)との条件を明示した。中島は彼女の条件をそのまま認め、その上でクラークソンは就任したのである。これを「学校運営における日本人教師の主権を確立した画期的な事件」と評価するのは難しいであろう。
とはいうものの、この事件を機に同志社関係のクリスチャン男性たちが大澤善助を中心に募金を集め、女学校の経費の案出に力を注ぎ始めたことは事実であった。1886年2月17日および3月2日付のクラークソンの書簡によると、経費の分担は日本人側は「学校の経常費と日本人教師の給料および屋内の修理費」を受け持ち、ミッション側が「燃料費、設備費、修繕費、および税金」の計400ドルを支払うということだったようである。2人の女性宣教師の給料1,200ドル(年間)は依然としてウーマンズ・ボードからの送金である。
ちょうどこの時期は鹿鳴館時代と重なり、2~3年後に来る国粋主義時代直前の、ほんのしばし欧風化に対する順風を楽しむことのできた年代であった。生徒数も1885年約30名、1886年約70名、1887年約140名と倍々増していた。クラークソン着任2年目には、ウーマンズ・ボード送金による百人収容の新校舎を増設することもできた。以上のことを勘案すると、「明治十八年事件」の評価は「此結果は、内外一致、衆心協力、校運隆昌の動機」となったとする『同志社五十年史』のまとめが当を得たものといえるのではあるまいか。

  • 松浦政泰『同志社ローマンス』(1918)に記載された『明治18年事件』の顛末
    1-78 松浦政泰『同志社ローマンス』(1918)に記載された『明治18年事件』の顛末
  • かたみの松
    1-79 かたみの松
  • 明治18年事件当時の在校教員、生徒
    1-80 明治18年事件当時の在校教員、生徒
  • 第13回日本ミッション年会議事録(1885年6月12~17日)この年会で同志社女学校の一時休校が決まった
    1-81 第13回日本ミッション年会議事録(1885年6月12~17日)この年会で同志社女学校の一時休校が決まった
  • 100名収容の新校舎(左側の建物) 「明治十八年事件」後に、ウーマンズ・ボードの募金により増築された
    1-82 100名収容の新校舎(左側の建物) 「明治十八年事件」後に、ウーマンズ・ボードの募金により増築された
  • 中島末治 1884年英学校余科卒業後、女学校教頭に就任
    1-83 中島末治 1884年英学校余科卒業後、女学校教頭に就任
  • 大澤善助 実業家、同志社創立以来新島の良き協力者「明治十八年事件」の後は、全面的に女学校の経営に参与した
    1-84 大澤善助 実業家、同志社創立以来新島の良き協力者「明治十八年事件」の後は、全面的に女学校の経営に参与した
  • 100名収容の新校舎の前で全員集合写真(1887年)1885年から生徒数がどれほど増えたかがわかる。前列右からホワイト、フーパー、第2列右からウェンライト、シェッド
    1-85 100名収容の新校舎の前で全員集合写真(1887年)1885年から生徒数がどれほど増えたかがわかる。前列右からホワイト、フーパー、第2列右からウェンライト、シェッド
  • 新校舎建築と女教師(音楽担当)派遣を依頼した請願文「明治十八年事件」後に、日本人関係者より米国宣教師宛に提出されたもの。日付は明治19年4月、請願文起草者は大日本京都同志社女学校 理事員綱島佳吉・竹原義久・中村栄助・村田栄次郎・福田徳三郎・大澤善助である
    1-86 新校舎建築と女教師(音楽担当)派遣を依頼した請願文「明治十八年事件」後に、日本人関係者より米国宣教師宛に提出されたもの。日付は明治19年4月、請願文起草者は大日本京都同志社女学校 理事員綱島佳吉・竹原義久・中村栄助・村田栄次郎・福田徳三郎・大澤善助である



記念写真誌 同志社女子大学125年