学生会活動

同志社女子大学発足当時の大学の雰囲気はどのようなものであったのか。
同志社女子大学が新制大学としての第1回入学式を挙行したのは1949(昭和24)年4月のことであるが、この年と翌1950年度は、同志社女専の学生と女子大学の学生が同じ校舎で別のクラス編成で学んでいたことになる。一方は新しい教育理念のもとに、もう一方は伝統ある同志社女専の掉尾を飾る学年として、共棲していたのである。大学側としては、機構上、常時2種類の学生を扱わねばならず、事務的・物理的意味合いでは、かなり大変だったことが想像される。確かに、女子大学第1回卒業生の中には、自分たちの学年の時は何やら学校全体がごたごたしていて落ち着かなかったとの感想を持つ人もいる。
しかし、学生同士は、女専・女子大学のこだわりはあまりなく、相互に助け合い協力し合って、この変則事態を乗り切ろうとしていた。そのことを示す『同志社女専・女大新聞』がある。残存しているのは、第1号(1949年7月1日、発行人平野智恵子)、第2号(1949年11月25日、発行人太田典子)、第3号(1950年2月20日、発行人一柳玲子)、第4号(1950年7月5日、発行人長沢舜子)の4部だけであるが、発行は同志社女専・女大新聞部となっていることから、学生会活動は合同でしていたことがわかる。
記事の内容も、当然女専、女子大学両方に関することであるが、スタートを切ったばかりの女子大の前途を気遣う記事が優勢を占めている。「新制女子大学の動向」(第3号)のタイトルで、関西の3女子大学(京都女子大学・奈良女子大学・大阪女子大学)の探訪記を載せたり、「出足好調か──25年度入試状況」(第3号)として女子大の受験生情報を報じている。第2号では、「二者(教授会及学生会)協議会設置の見込み」「スチューデンツ・アッセンブリー・アワー実現」等、新しい大学で新しい試みをとの意気込みが伝わってくるような記事もあれば、「課外時間の利用未し──女子大現状報告」の欄では、女子大発足以来半年を経て、「米国のカレッジにならった、一時間の授業に二時間の自習」の原則が守られているかとの問いかけをしつつ、週16時間、土曜は女専と合同のアッセンブリ・アワーに出てくるだけでいい女子大生の生活を、「とも角女子大生が女専生に比べ伸々と自由に個性を伸す機会をより多く与えられる事は否めない」と締め括っている。また、この時点では、新たに導入された社会科学の中の人間関係科目が女子大生に最大の関心を持って学ばれていることも報じている。
『同志社女専・女大新聞』の後を受けて、『同志社女子大学学生新聞』が発行され始めたことは容易に想像がつく。この新聞は年度によっては季刊・月刊とばらつき、また、後になるほど間遠になるが、残存しているのは1954年6月5日に発行された第4号(編集発行人 吉相靖子)からである。発行はもちろん学生会の新聞部である。
これに対し、学生会発行の『同志社女子大学学生会誌』が1958年11月28日に創刊号を出し、年1~2回の割合で、学生会活動全般とクラブ活動報告と学生座談会などを載せて発行された。ほぼ毎号学長執筆記事もある。『同志社女子大学学生新聞』が大判の新聞サイズ1枚裏表2ページであるのに対し、『学生会誌』の方はタブロイド判4ページであった。
新聞発行以外でも、学生会の活動は女専時代に築かれた基礎の上に、学生生活の充実を願う女子大学生──なかには共学の高校ですでに学生会活動を行ってきた学生もいた──の夢と力が加わって、目覚ましい発展を遂げた。発足当時、全学生は半年ずつ8部(庶務・厚生・アッセンブリー・宗教・新聞・図書・クラブ活動・体育)に任期を持ち、その間それぞれの部での活動によって多面的な知識と経験を得ようとした案などは、リベラルアーツによる全人教育を目指す新制女子大学の理念を具体化した画期的なものであった。この案は、学生会は学生各人のためのものであり、学生はこの学生会に対して責任があるとの基本的な考えに基づいて考え出されたものであった。残念ながら、この部制は学生数の増加と学生会自身の内面的発展のために解消を余儀なくされた。しかしながら、創設期の女子大生たちが全国女子学生協議会で中心的な役割を果たしつつ、ひたむきに真の学生会のあり方を求めたのも、女子大学内で教員と学生による二者協議会を存続させたのもみな、当時の学生および教員が自主的で自律した学生会をスタートさせようとの熱意の現れであったと言える。

具体的に1955年度の活動を挙げると、厚生部は教室清掃の学生アルバイトのための予算を強化する、YWCAは宗教部と一本化して強力な働きを実施する、出版部は新聞部と改称して毎月発刊を目指す、クラブ活動はESS・古美術・レコードコンサート・茶道(表・裏)・華道・演劇・ユネスコ・能楽・邦楽・俳句・ロシヤ文学・哲研・読書会・英語聖書・絵画に分かれて多彩かつ真剣な集会を定期的に行う、アッセンブリー部は週1回水曜午後に新たに設置されたアッセンブリーの時間の使い方の研究および講師の折衝などである。また、体育部の優秀な部員の増加が、卓球における第22回(1955年)世界卓球選手権大会出場の楢原静世、第23回(1956年)の難波多慧子選手を生み出し、また硬式・軟式庭球の打ち続く優勝をもたらしていたのもこの時期の特徴であった。
本学史料室で、創設期女子大学卒業生(第1期~第4期)の座談会を学年単位で持ったとき、どの学年の参加者も在りし日の学生時代がどれほど充実していたかを、熱情を込めていきいきと語られたことを思い出す。具体的には、一般教育科目の充実とレベルの高さであり、学生会活動の中で、教室で、あるいは個人的な交わりにおいて、信頼して教師と向き合うことができた幸せであった。同志社女子大学がリベラルアーツ・カレッジとしての再出発を決意したときは、新生日本の復興気運とも相まって教師と学生が一緒になって、新しい教育の創造を目指して燃えた日々であり、フレッシュで希望にあふれた雰囲気がキャンパスのすみずみにまでにみなぎっていた時代であった。
しかし、ある意味で本質的には、女子大学の教育は女専の目指した理念の延長線上のものであった。同志社女学校の時代から、もともとリベラルアーツに力を注いでいたし、女専の一般教育のレベルは高かった。また同志社の伝統そのものが、キリスト教主義による人格教育と一般教養の重視であったからである。

  • 市電が走っていたころの女子部正門前
    4-36 市電が走っていたころの女子部正門前
  • 『同志社女専・女大新聞』第2号(1949年11月25日)「学生会」の部として渉外・教養・宗教・体育・厚生部が挙がっている
    4-37 『同志社女専・女大新聞』第2号(1949年11月25日)「学生会」の部として渉外・教養・宗教・体育・厚生部が挙がっている
  • 男女に分かれての綱引き 女性軍の勝ち
    4-38 男女に分かれての綱引き 女性軍の勝ち
  • 新しくスタートしたアッセンブリー・アワーを報じる記事(『同志社女専・女大新聞』第2号)
    4-39 新しくスタートしたアッセンブリー・アワーを報じる記事(『同志社女専・女大新聞』第2号)
  • 『同志社女専・女大新聞』第1号(1949年7月1日)「編集後記」の中で、女専時代にはなかった新聞が女子大発足とともに発行可能になった喜びを述べている
    4-40 『同志社女専・女大新聞』第1号(1949年7月1日)「編集後記」の中で、女専時代にはなかった新聞が女子大発足とともに発行可能になった喜びを述べている
  • ジェームズ館前芝生での語らい
    4-41 ジェームズ館前芝生での語らい
  • 『同志社女子大学学生会誌』 創刊号(1958年11月)
    4-42 『同志社女子大学学生会誌』 創刊号(1958年11月)
  • 軟式テニス部 1955年全日本大学対抗優勝
    4-43 軟式テニス部 1955年全日本大学対抗優勝
  • 硬式テニス部 1954年関西学生庭球選手権大会優勝
    4-44 硬式テニス部 1954年関西学生庭球選手権大会優勝
  • 同女大の優勝を伝える新聞記事1954年11月14日(神戸新聞)
    4-45 同女大の優勝を伝える新聞記事1954年11月14日(神戸新聞)
  • 第22回世界卓球選手権大会に出場する楢原静世選手の壮行パレードを伝える新聞記事(1955年3月28日、京都新聞)
    4-46 第22回世界卓球選手権大会に出場する楢原静世選手の壮行パレードを伝える新聞記事(1955年3月28日、京都新聞)
  • 第23回世界卓球選手権大会に出場する難波多慧子壮行会(1956年2月11日)
    4-47 第23回世界卓球選手権大会に出場する難波多慧子壮行会(1956年2月11日)
  • 自動車部 中部関東一周養護施設慰問(1963年7月10日)
    4-48 自動車部 中部関東一周養護施設慰問(1963年7月10日)
  • 山岳部 池の平から剣沢へ(1957年7月22日~28日)
    4-49 山岳部 池の平から剣沢へ(1957年7月22日~28日)
  • 能楽部 第40回自演会 「三輪」後見片山九郎右衛門。味方玄 金剛能楽堂(1998年11月26日)(上) 第19回自演会 「井筒」京都観世会館(1977年11月21日)(下)
    4-50 能楽部 第40回自演会 「三輪」後見片山九郎右衛門。味方玄
    金剛能楽堂(1998年11月26日)(上)
    第19回自演会 「井筒」京都観世会館(1977年11月21日)(下)
  • 邦楽部 第2回定期演奏会 栄光館(1960年11月27日)
    4-51 邦楽部 第2回定期演奏会 栄光館(1960年11月27日)
  • 華道部(小原流)(1961年)
    4-52 華道部(小原流)(1961年)
  • 茶道部 裏千家15代家元鵬雲斎宗室宗匠と 同志社創立90周年記念日(1965年11月29日)
    4-53 茶道部 裏千家15代家元鵬雲斎宗室宗匠と 同志社創立90周年記念日(1965年11月29日)
  • ESS 英語劇 栄光館 (1963年11月27日)
    4-54 ESS 英語劇 栄光館 (1963年11月27日)
  • CCD(同志社学生混声合唱団)(1961年)
    4-55 CCD(同志社学生混声合唱団)(1961年)
  • 第3回会展案内状(1957年6月)
    4-56 第3回会展案内状(1957年6月)
  • こぶし画会 (1967年)
    4-57 こぶし画会 (1967年)
  • 古美術研究会(1961年)
    4-58 古美術研究会(1961年)
  • マンドリン部 第5回定期演奏会 大谷ホール(1973年11月8日)
    4-59 マンドリン部 第5回定期演奏会 大谷ホール(1973年11月8日)

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プレイデー、キャンプ、修養会

プレイデーは、新入生歓迎行事のひとつであり、現在のフレッシュマン・キャンプに相当するものである。全学生ならびに教職員が貸切バスまたは船舶を利用して、1日ピクニックを楽しむ日のことである。前年度の1月にはプレイデー学生会実行委員会が発足して、行先の選定、バス会社との交渉を開始する。場所は生駒であったり奈良であったり琵琶湖であったり、要するに、日帰り旅行が可能な地であればよい。現地に着くと、昼食をとり教職員と生徒がいっしょになってゲームなどをする。学生数が多くなかった(1,500名前後)から可能であった行事であるが、新入生が大学に慣れ、先生と近づきになり、上級生や新入生同士の親睦を図るのに有効な行事であった。
それは春期だけでなく秋期にも行われるほど人気のある行事であったが、秋期に行われるときには、体育の単位に換算されるなど学外遠足の色合いが加わった。1967年までは毎年学外で実施されたが、1968年に「今年のプレイデーはバスツアーを中止してキャンパス内で行う(晴天ならジェームズ館前芝生、雨天の場合は栄光館)」との計画変更がなされてからは、以後プレイデーという言葉は使われなくなったようである。内容も講演、クラブ活動紹介などと変化して、現在のオリエンテーション期間中の行事に引き継がれていく。
同じく学生会と大学当局が協力して計画立案する行事に、キャンプと修養会があった。このふたつの行事は、いずれも宗教教育活動の一環として実施されたもので、始めのうちはあまり区別のつきがたい内容であった。なぜなら、ともに期間中に講師による講演を聴き、講演内容について討議し、礼拝・讃美の時間を持つことがプログラムの主要部分であったからである。違いは女子大学が始まって10年間ぐらいは、修養会の参加者は宗教部の学生が大半であるのに対し、キャンプには一般学生の参加が多かったということぐらいであった。また、修養会は1泊2日で、春秋2回行われたのに対し、キャンプは夏期休暇中1回で3泊4日であった。
ところが、1960年ころからキャンプが「組織キャンプ」(「教育キャンプ」)と位置づけられるにつれて違いがだんだん明瞭になってきた。当時学生主任であった酒井康は、それまでのキャンプが「静的・受容的・知的教養的」であったのに対し、現在のそれは「動的・創造的・経験的」であると特徴づけている。1960年以降のキャンプはリーダーシップを養う訓練をひとつの重要目的と決め、キャンプに参加するものにはあらかじめリーダーシップ養成講座を受講することが義務づけられた。
キャンプの強調点は、一貫して「良きリーダー、良き協力者、そして良き友となる」ことであった。言い換えると、キャンプにおける良きリーダーとは同時に良きキャンパーでなければならず、また良きキャンプとは、準備2分の1、現地4分の1、その他4分の1、そしてプラス・アルファがあって初めて成就されるものと谷川和子学生主事によって指導された。そして、同主事のもとでキャンプのいっそうの充実が図られ、そのようなキャンプに参加を希望する学生が年々増加してきたので、3期に分けて3泊4日の夏期キャンプをしなければならない年(1963年、1964年)もあった。場所は唐崎、北小松(1953~58年)から佐波江にある京都YMCAキャンプサイト、余島の神戸YMCAキャンプサイト(1959~64年)へと移して実施された。
キャンプ・プログラムの中に「黙想」(meditation)の時間の必要性を説いたのは、ヒバードであった。そのためのハンドブックが作られ、参加者一人ひとりが「黙想」を通して自らの心の中を見つめ、神と出会うことが願われた。
修養会は山科一灯園、西山三鈷寺、唐崎ハウス、田辺学舎などを会場として行われ、参加者は多いときで80~90名、少ないときで30~40名であった。修養会(現在はリトリートと呼ばれている)、サマーキャンプ(現在は冬期のスキーキャンプも加わっている)ともに、大学行事として現在まで途切れることなく続いている。
キャンプにおいても修養会においてももっとも大切なことは、参加すること、経験することであり、それは同志社女学校が始まったときから重視していた「生活を通してキリスト教による教育の真髄を体得する」という学び方であった。

  • プレイデー(1953~67)スケジュール
    プレイデー(1953~67)スケジュール
  • パン食い競争で大口を開ける先生たち
    4-60 パン食い競争で大口を開ける先生たち
  • キャンプ 佐波江YMCAキャンプサイト「さあ着いたよ!」
    4-61 キャンプ 佐波江YMCAキャンプサイト「さあ着いたよ!」
  • 学生会の行事は礼拝で始める慣わし
    4-62 学生会の行事は礼拝で始める慣わし
  • 「ご飯だ!ご飯だ!さあ食べよう」
    4-63 「ご飯だ!ご飯だ!さあ食べよう」
  • 一番長続きするのは誰
    4-64 一番長続きするのは誰
  • 琵琶湖畔 船と陸に分かれてともに夕拝
    4-65 琵琶湖畔 船と陸に分かれてともに夕拝
  • キャンプで黙想するヒバードとキャンパーたち
    4-66 キャンプで黙想するヒバードとキャンパーたち
  • 黙想ハンドブック
    4-67 黙想ハンドブック

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ビッグシスター・リトルシスター

1953年ころから本学に入学を希望する学生が増えはじめ、それに伴って新入生の中には入寮を希望しながら下宿を余儀なくされる学生が出るようになった。ビッグシスター・リトルシスターの制度はそのような学生が一日も早く大学生活に慣れるために必要なアドバイスを提供することを願って誕生したものである。
当初活動実施に当たり、学生課が計画したのは以下のことであった。まず全学生の中から(1)宗教部に属している学生、(2)京都在住の自宅通学の3・4年次生、(3)同郷の上級生、の3点に絞って候補者選びをすることであり、この3点を条件とした理由は、

  1. (1)同志社に学ぶ者として、キリスト教精神の理解を助けることを願うため
  2. (2)家庭を離れた下宿学生を自宅に招き家庭の雰囲気を伝えることができるため。3年以上としたのは、大学生活の経験を活かしたアドバイスが与えられることを願うため
  3. (3)入学当初、方言による緊張感を和らげることと、同郷の共通話題による親しみを願ったため

である。
そして、以上の条件を参考にして、初年度はビッグシスターの候補者144名を選び、活動説明書を送って協力を依頼。その結果、82名の学生がビッグシスターになることを承諾した。一方、新入下宿学生全員に対してはビッグシスター・リトルシスター制度の紹介をし希望の有無を尋ねたところ、103名が回答し80名が紹介を希望した。
つぎに学生課は出身地・下宿住所などの地理的条件・趣味その他希望事項を参考にビッグシスター・リトルシスターの組み合わせの作業をした。そして、ペアが決まると、ビッグシスターになることを受諾した上級学生には学校から委嘱する形をとり、リトルシスターにはビッグシスターの紹介をした。双方は入学式以前から連絡を取り合って下宿生活を送るにあたっての不安が少しでも軽減できるようにした。リトルシスターにとっては、学科登録・課外活動など大学生活の出発に際してのアドバイスが受けられたこともありがたかったようである。
この活動の初期においては、前述のようにビッグシスターは学校から委嘱するのが唯一の方法であったが、学生会活動(とくにキャンプやリーダーシップ・トレーニング・キャンプ)の活性化とともに、次第に学生の自主的参加の気運(とくにリトルシスター経験者がビッグシスターになることを希望)が高まり、活動参加者を公募するようになった。彼女たちにとって、このビッグシスター・リトルシスター制度は人間関係科目の実践の場となったと評価したものも多かった。

  • ビッグシスター・リトルシスターのスナップショット(1961年ころ)
    4-68 ビッグシスター・リトルシスターのスナップショット(1961年ころ)
  • ビッグシスター活動の趣旨
    4-69 ビッグシスター活動の趣旨
  • ビッグシスター・リトルシスター応募用紙(1999年度)
    4-70 ビッグシスター・リトルシスター応募用紙
    (1999年度)

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シェイクスピア劇の上演

2000年で50回を迎え、今なお学生の中に根強い人気を保っているものにシェイクスピア劇の上演がある。第1回上演が1951(昭和26)年2月22日に女専英文科の学生によるものであったことは、既知のことである。題目はMacbeth (『マクベス』)であったが、もちろん現在のように、全編の上演ではなかった。参加した学生の回想によると、女専の最後を飾るものとして何かをしたいとの思いから上演が思いつかれたとのことである。幸い、クラスでシェイクスピアの講読はしていたし、すぐそばに高田峯尾・吉川順という最高の指導者がいた。そして、事は成就したのである。
女専の先輩たちの遺してくれたものを引き継ぎ、伝えていこうとするのは、同志社女子部の伝統であり、当然のことのように、第2回の上演がそれから2年後の1953年2月に、女子大学第1期生によって行われた。女専の場合と同じく、卒業公演の色合いが濃かった。
しかし、同年11月13日に第2期生によって行われた第3回公演からは、上演時期を同志社創立記念週間前とし、EVE行事の一環として一般公開されることになった。「シェイクスピア・イブ」の名が付けられたのも、この時からである。その上、この年から3年間は英文学科教職員総出演による「ファカルティ・プレイ」が前座として演じられた。Hamlet (『ハムレット』)3幕2場の、いわゆる劇中劇の場面が選ばれたが、学生たちはやんやの喝采を送った。まさに新しい学園づくりに燃える同志社女子大学の教師と学生が一体感を味わうことのできた至福の時であった。
この年から、外国人教師による「ドラマティック・リーディング」が始まったのも、記念すべきことであった。最初の年は、グラント,ヒバード両教授によるMidsummer Night’s Dream (『夏の夜の夢』)から2幕1場が朗読された。このドラマティック・リーディングはファカルティ・プレイが取りやめになってからも、さらに2年間1958(昭和33)年まで続けられ、朗読者も前記2教授のほかに、同志社大学神学部のロイド教授や来日中のハントレー教授らの出演を得た年もあった。選ばれた作品はMerchant of Venice (『ベニスの商人』),Taming of the Shrew (『じゃじゃ馬馴らし』)、As You Like It (『お気に召すまま』)など喜劇が多かった。
ファカルティ・プレイに代わってシェイクスピア・イブを盛り上げたものに、音楽専攻の教員・学生によるエリザベス朝音楽の演奏があった。それは1959年から64年まで続き、主にシェイクスピア劇中で歌われる歌やエリザベス時代の歌謡曲の独唱や合唱、室内楽ファンタジーやマドリガルなどの合奏であった。これらは劇に先んじてエリザベス朝の雰囲気を醸し出すのに大変効果的だった。
シェイクスピア劇上演は、その後ドラマの中身および演出ともに、年を追うごとにいっそう充実していき、ついに、1971(昭和46)年にはカリキュラム上の変更を導いた。すなわち、それまでは4年次に作品を読みながら、それと並行して上演の準備を進めていたのであるが、この年から、3年次で作品を読み終え、4年次で上演という理想的な形が実現した。さらに、1975年からは、英文学科の新カリキュラム実施に伴い、この行事は「シェイクスピア・プロダクション」というひとつの学科目となって、現在に至っている。

  • シェイクスピア劇プログラム(1955年)、チケット(1957年)
    4-71 シェイクスピア劇プログラム(1955年)、チケット(1957年)
  • ファカルティ・プレイ Hamlet  学生に大人気(1955年)
    4-72 ファカルティ・プレイ Hamlet  学生に大人気(1955年)
  • ドラマティック・リーディング ハントレー・グラント教授(1957年)
    4-73 ドラマティック・リーディング ハントレー・グラント教授(1957年)
  • 女専生徒による第1回シェイクスピア劇Macbeth  (1951年)
    4-74 女専生徒による第1回シェイクスピア劇Macbeth  (1951年)

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女子大学EVE

そもそも同志社EVEとは、同志社創立記念日「前夜祭」のことであり、その意味では古く明治10年代からあった。最初のうち、この記念日の行事は祈禱会、祝賀会、午餐会、夜会等であったことが知られる。しかし、その日を「同志社EVE」と呼んでいる文献上の記録は、創立51周年を祝う1926(大正15)年が最初である(『同志社校友・同窓会報』第4号)。以来第2次大戦後まで同志社EVEは全同志社の音楽会が主要な行事であった。それが、1950年代以降、同志社大学の学園祭的色彩が加わり、EVEに前後して講演会、クラブの展示、発表、定期演奏会などが数日間行われるようになった。また1969年の大学紛争以降、全同志社EVE大音楽会は開催されなくなった。
女子大学でも独自のEVEを開催するようになり、正式に学年暦に位置づけられたのは、1962(昭和37)年からである。しかし、少なくとも1959年の邦楽部、能楽部自演会等を同志社女子大学EVE実行委員会が後援しており、女子大学EVEのルーツはすでに50年代にあるといえる。
1960年からは毎年テーマを決め、それに沿った展示、講演などが企画され演奏発表会も催されてきた。近年は若者に人気のミュージシャンを招いての音楽会、さまざまな食べ物の模擬店、入場者参加のゲーム等が主となり、これは一般の大学学園祭の共通した傾向となっている。教職員主催の「がらくた市」も例年の行事で、収益は学生奨学金に寄贈される。いずれにしても、この期間の今出川キャンパスは、学外からの入場者を大勢迎えて大賑わいである。

  • As You Like It  (1978年)
    4-75 As You Like It  (1978年)
  • Twelfth Night  (1992年)
    4-76 Twelfth Night  (1992年)
  • EVEのテーマ一覧
    EVEのテーマ一覧
  • EVEのポスター (1972年、73年、75年、81年、82年、86年)
    4-77 EVEのポスター (1972年、73年、75年、81年、82年、86年)
  • 教職員による「がらくた市」 1984年から始まり、毎年収益は学生奨学金に寄付される
    4-78 教職員による「がらくた市」 1984年から始まり、毎年収益は学生奨学金に寄付される



記念写真誌 同志社女子大学125年