第2章 当初の全体計画について

ミス・デントン積年の願い;女子高等教育の充実のために

1876年に女子塾としてスタートした同志社女学校は、1888年に普通科(5年)の上に専門科を設置し、1892年にはそのなかに、師範科・文学科・神学科、ついで1905年には家政科を設けるなど、女子高等教育の充実・発展に力を注いでいた。これにあわせて施設面の充実も強く求められていたことが、『同志社女学校期報』第24号(1907年)に「同窓生諸姉に告ぐ」と題した原田校長の寄稿文からも覗える。
「我女学校が、本社の諸学校中其設備に於て最も不完全なるは、何人も同様に感ずる所なるべし。就中校舎の老朽狭隘にして不便利極まるは諸姉の能く知りたまへるところなり。然るに2、3年来生徒の数はいよいよ加わり、本年4月に至りては諸科の総生徒数200名を越ゆるに至れり。ここに於いてか校舎の狭隘は最早忍ぶべからざるに至れり。(後略)」当時の京都で、ハイカラへの憧れの象徴だった“芝生につる薔薇の咲く校庭”“木造白壁のコロニアル風のモダンな校舎”も生徒数増加に対して、校舎規模が限界に達していたようである。
しかし、名物先生メリー・フローレンス・デントンは、同志社着任(1888年)当初から、この日のために熱心に募金活動を続けており、1908年には米国パシフィック・ボールドの寄付を中心に静和館の建設基金を、1911年にはニューヨークのジェームズ氏の寄付を中心にジェームズ館の建設基金を確保していく。ミス・デントンが生涯を通じて同志社女子高等教育にかたむけた情熱が、周囲の人々を動かし、旧静和館・ジェームズ館・栄光館の3つの施設に結晶したのではなかろうか。

メリー・フローレンス・デントン

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後に娘を学ばせるに至る武田五一と同志社の縁

設計者については、1911年『同志社女学校期報』第30号に「設計は初め一昨年中、ヴヲリス氏に依嘱して数回案を調製」との記載がある一方で、ミス・デントンから武田五一に相談をもちかけていたような形跡もあり、いつ、どういう経緯で決定したのか不明確なところもあるが、同じ『期報』で(旧静和館の)「技師は【国会議事堂建築技師】京都高等工芸学校教授工学士武田五一氏に御座候」となっている。
武田自身の手記には「ミス・デントンとの特殊な関係から依頼されたもので、又日本に対するミス・デントンの熱意に動かされて引き受けたもの」と記されており、後には家政科で建築学の講義をしたり、娘2人を同志社女学校に学ばせていることから、武田もミス・デントンの情熱に動かされ、この計画に関わって以降、同志社と、ひとかたならぬ縁を持ち続けることになったのであろう。

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本社に負けない“同女コンパウンド”としての全体計画

原田校長の文「本社の諸学校中其設備に於て」は大学の煉瓦造施設(当時は彰栄館・礼拝堂・書籍館(現有終館)・ハリス理化学館・クラーク神学館(現クラーク記念館)の5棟)などが比較対象のようだが、同志社女子部(以下「同女」と呼ぶ)旧静和館を設計中の武田もまた、大学の煉瓦造施設群に着目していたようである。彼は後の手記の中で、これらの煉瓦造建築の中でも、アメリカンボードから来ていた宣教師D.C.グリーンの設計による彰栄館・礼拝堂・有終館の3棟のスタイルを『アメリカンゴシック』と命名するとともに、“同志社コンパウンド”として高く評価した(残り2棟については、この3棟と調和していないと惜しんでいる)。これらのことから、当計画に際しては旧静和館のみならず、ジェームズ館、栄光館も合わせて3棟全体で同女の新しい顔を“同女コンパウンド”としていく[マスタープラン]の視点があったものと考えられる。3棟完成まで約20年を要したので、途中で見直しが加えられた部分もあろうが、最後まで武田が関わったことからも、マスタープランの貫徹度は高いのではなかろうか? 以下に上記3棟の事業経緯を簡単に紹介する。
1907年から募金再開、1909年より設計着手、1911年8月旧静和館着工、1912年8月竣工
1913年9月ジェームズ館着工、1914年8月竣工、1930年12月栄光館着工、1932年2月竣工

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御門前に『同志社レンガ通り』を創る

今出川通を挟んで南側の御所(京都御苑)に正対して、礼拝に使われる栄光館(講堂)を最も象徴性の高い外観として中心に、その東西にほぼ同じデザインの旧静和館とジェームズ館を左右対称に配置していることからは、かなり中心性と正面性の強い計画と言える。隣接する大学敷地内のハリス理化学館や、礼拝堂も同様の南向き配置だが、これらは今出川通よりもかなり奥まっており、最も京都御苑に近い有終館は御所に対して正対する配置は避け、東向きとしている。東西に長い敷地の形状から、自然と御所に向かって3棟並べる配置となったのであろうが、先の同志社コンパウンドの建築群と連続した“同志社レンガ通り”とも呼ぶべき地域景観を、御所と調和させることが、マスタープラン上の大きなテーマだったのではなかろうか?
煉瓦造2階(一部3階)建ての建物が有終館から静和館まで150mにわたって建ち並ぶ景観は、さぞかし堂々としていたものと想像される。しかし、写真で見る限り、今出川通から生垣を隔てて佇む3棟の煉瓦造建築は、屋根に和瓦を戴いていることも手伝って、木造の旧校舎の面影を残しつつ、京都の歴史的街並みに溶け込んでいるように感じる。

ジェームズ館・栄光館・旧静和館

今出川通りから見た景観。左からジェームズ館・栄光館・旧静和館。(1935年頃)


ジェームズ館探訪