第1章 ジェームズ館の生いたち
当初の建物概要
建物名称 | 同志社女子大学ジェームズ館 |
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所在地 | 京都市上京区今出川寺町西入玄武町 (現同志社女子大学今出川キャンパス内) |
設計者 | 武田五一 |
施工者 | 清水組(現清水建設株式会社) |
建設時期 | 大正2年(1913年)9月21日-起工 大正3年(1914年)1月9日-完礎式 大正3年(1914年)4月8日-上棟 大正3年(1914年)8月-完成 (建設時期は本件の小屋裏にある棟板の記載内容による) |
規模 | 地下1階・地上2階建 |
建築面積 | 696.9m² |
延床面積 | 1,439.7m²(地階:56.9m² 1階:696.9m² 2階:685.9m²) |
軒高 | 9.35m |
棟高 | 約13m |
構造 | 煉瓦造(一部木造壁) 床 組-木造、一部鉄骨梁併用 小屋組-木造洋小屋組 |
敷地状況 | 地 盤-支持地盤はGL-1.7mの玉石層 地 形-平坦地 |
設計者 武田五一について
武田五一は、「関西建築界の父」と言われた著名な建築家であり、京都における建築を含め幅広いデザイン教育のわが国近代化時代のリーダーでもあった。
生涯150もの作品を残したが、現在かなりの建物が取り壊されて現存しない。本建物は武田五一の作品のうち完全な形で現存する最も古い煉瓦造建築である。
以下に足立裕司氏の「武田五一・人と作品」より武田五一の年譜を簡単に示す。
生い立ち
明治5年広島県福山町に武田直行の子として生まれる。五大州一の学者にと期待が込められた五一の名のとおり京都第三高等中学校(後の三高)へ進んだ。
留学まで
明治27年、東京帝国大学造家学科に入学。
卒業後、大学院に進学。在学中、妻木頼黄の下で、東京における和風建築再興の最初の作品と言われる日本勧業銀行を完成させた。
同32年、大学院を中退、東京帝国大学助教授となる。
欧州留学
明治34年、図案学研修のために渡欧。ロンドンに居を定める。その後、フランスに渡りパリに滞留した後、ヨーロッパ各地の見学旅行をしながら帰国の途につく。途中、ウィーンに興っていた新しい建築・工芸運動を垣間見たのが、帰国後の作品に大きな影響を与えた。
作品初期
明治36年、帰国。京都高等工芸学校(現京都工芸繊維大学)教授となり、図案科の礎を築く。
この間、福島行信邸、名和昆虫研究所記念昆虫館、京都市記念図書館、京都商品陳列所など数々の建築、住宅、工芸品等をつくる。明治末期頃から徐々に作風の変化が見られ、和風の伝統を盛り込むようになる。旧静和館、芝川邸、求道会館等がその例。この時期にジェームズ館が作られる。
作品後期
大正7年、名古屋高等工業学校校長として転任。同8年から京都帝国大学建築学科創設委員として学科創設に尽力。翌9年、京都帝国大学建築学科教授となる。教育の他、各種の委員を嘱託され、設計にも弟子の手を借りることが多くなる。作風はそれまでのように一貫したものが薄れてゆき、形式の自由度を増す。
この期の作品には、東方文化学院京都研究所、三井相続会館など多数あるが、アール・デコ風の装飾のある東本願寺内寺所洋館、上総町の自邸、藤山雷太邸などの住宅に秀作が多い。
これまでの改修履歴
現地調査から以下のような改修が行われていることが判明した。詳細な記録が存在しない為、改修時期や目的は不明なものもある。
1.南面2階窓の外側にスチールサッシを設置 | 14.東側玄関傘立て、下足箱を撤去 |
2.外壁煉瓦目地のパテ補修 | 15.東側玄関、庇及び扉を撤去 |
3.屋根の葺き替え及び軒樋取り替え | 16.東側階段の1階に掃除道具置場を設置 |
4.ドーマー窓上部屋根を銅板で覆い補修 |
17.西側入り口の庇の撤去、RC庇の新設、ランマ窓撤去 |
5.1階部屋間の煉瓦壁に開口及び扉を設置 | 18.東西階段段板取り替え(1~2階) |
6.東西バルコニー出入口扉を腰窓に変更 | 19.照明器具の取り替え |
7.2階南西の居室の一部を和室に改装 | 20.空調機及び室外機の設置 |
8.南側出入口外開きに変更 | 21.キュービクルの設置 |
9.廊下の床にリノリュームシート上張り | 22.床下換気口、木製に取り替え |
10.各廊下出入口上部ランマ横軸回転に改修 | 23.窓クレセント・扉把手・丸落し等、金物一部改修 |
11.居室内に間仕切り壁を設置 | 24.黒板改修取り替え |
12.手洗い場・流し台・洗面台を設置 | 25.教壇改修 |
13.東側玄関横に便所を増設 | 26.カーテン・暗幕取り付け |