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第6回 1932年2月11日 栄光館竣工

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同志社今出川キャンパスのシンボル栄光館は、1930年12月に起工され、1932年2月11日に献堂された。その名称は、『旧約聖書』の「エゼキエル書」(43‐4)および「ハガイ書」(1‐8)に由来する。献堂式には、京都府知事・京都市長ならびに京都帝国大学総長らも臨席し、祝辞を述べた。当時の京都においては、画期的な、教育・文化の殿堂の誕生だったのである。

「同志社女子部の母」M・F・デントン(1857-1947)は、1917年に知友のファウラー家から、同志社のために2万ドルの寄付を受けていたが、その2万ドルが利殖によって6万円になった時点で、女子部同窓会ならびに在学生が6万円を寄付し、財団法人同志社が6万円を支出し、総工費18万円で、2000席を擁する鉄筋コンクリート地下一階地上三階建てのこの一大西洋建築が建設されたのである。設計者は、静和館(1912年)・ジェームス館(1914年)と同じ、当時京都帝国大学教授で、関西建築学界の父と呼ばれた武田五一(1872‐1938)である。栄光館中央の八角の塔の正面(南面)には大時計がとりつけられていたが、1960年代に撤去された。

第5回 1877年4月21日 同志社女学校開校

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1875年の同志社英学校の開校に続き、新島襄は「社会の発展には女子教育を盛んにすることが不可欠」との考えに基づき、翌1876年5月、米国の女性宣教師・スタークウエザーの協力を得て女子塾を開設。これを母体に、1877年4月23日「同志社分校女紅場開業願」を提出、同28日認可された。この女紅場規則の学科目(綴字、正音、作文、文法、算術、地理、理学大意、万国史、修身学、裁縫、日本学)に関し、勧業課は異議を唱え、「新島設立の如き女紅場は名称を転じ女学校と改正すべし」と通達。その年の9月には名称を「同志社女学校」に変更した。「女紅場」は読み書き・裁縫など一般民衆女子の日常生活及び生産に必要な技能を教える「勧業授産」のための教育施設の名称で、「婦女子の才芸知識を開達する」ことを目的とする学校が名乗るのは誤解を招く、というのが理由であった。

新島の女学校には、日本社会の女子教育の問題を見据え、「女学校生徒に人権を重んずべき事と慷慨心を起さしむる事」への期待と、女性たちが「世の改革者、いや、改良者」となることへの希望が込められていた。まさに、リベラルアーツ志向に根ざした女子教育が当初より期待されていたといえよう。

「同志社記事 社務第18号」(『新島全集』1)には、「明治十年四月廿一日、柳原邸内ニ於テ女学校開設ス」と見え、上述の届出に先立って授業は開始されていたようである。同志社女子部ではこの記事を根拠に女子部創立記念日を4月21日としてきた。

第4回 1969年6月26日 学生運動と学内デモ行進

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1969(昭和44)年は全国的に大学改革が叫ばれ、激しい学園紛争が続いた年であった。本学では紛争はなかったものの、いわゆる大学立法(大学管理法案)反対運動として、6月23日に、午後の授業休講によるクラス討論と1,887名の参加者を得て学生大会が開かれた。翌24日はランチタイムに教職員に呼びかけて学内デモ、26日には全日授業休講のなか、午後からの学生会主催の抗議集会に続いて、1,000名ほどの学生が3派(民青、全学闘、その他)に分裂して女子大学単独のデモ行進を行った。ただ、学生部と常任委員会との会見を続けながらも全体としては同志社大学ほどの大きな混乱はなく、創立記念式や女子部バザーが学園事情から中止される中、11月には「体温の歪み」をテーマに女子大学のEVE行事が無事終了するなど通常どおりの活動が実施されていた。

第3回 1977年2月11日秋 今出川図書館開設

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1977年秋、女子部創立100周年の記念建造物として、日本で最初の地下図書館となる今出川図書館が完成した(地下2階、一部地上階あり)。その誕生までには10年にわたる紆余曲折があったという。キャンパス内の貴重な緑あふれる芝生庭園を崩して建設用地とすることに対する内外の反発、また、棟高の規制や美観条例など多くの問題を抱えて、建築構想は難航をきわめたのである。しかし、図書館全体を地下に位置させ、屋上に芝生を植え、さらに植え込みを作って庭園として復元するという、設計者鬼頭梓氏の提案により、これらの難題は考えうるかぎり最高のかたちで解決した。

本図書館は、今出川キャンパスにおける知と創造の発信の場として堂々とした威厳を保ち続けると同時に、その屋上庭園に、しだれ桜をはじめ四季折々の花々を凛と咲かせる優雅さを湛えている。

第2回 1924年12月8日 貞明皇后の行啓

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1924(大正13)年12月8日、貞明皇后が同志社女学校に行啓した。当日は朝の礼拝から授業(デントンの西洋料理)や作品展などを3時間半にわたり台覧し、海老名総長夫妻、松田道校長、新島八重、デントンが拝謁した。皇后の奉迎には、同窓会も 女学校と一体となって準備段階から奔走した。行啓は、基督教主義を標榜する同志社教育に対する社会的偏見を取り除き、今後の発展に向けて多大の奨励を得るものとして受けとめられた。

当時の様子は『同志社女学校期報』第50号行啓記念号(1925年3月1日発行)に詳しい。

第1回 1986年4月1日 田辺キャンパス開学

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1965(昭和40)年8月の理事会承認を契機に、同志社は新時代へのヴィジョンを描き得る用地として、京都府綴喜郡田辺町の広大な土地を近畿日本鉄道から買収し、「創立以来未曾有」とされる大プロジェクトに乗りだした。さまざまなドラマを経て田辺キャンパス(当時)開学が実現したのは、20年後のことである。新島襄による同志社創立から111年目にあたる1986年3月27日、同志社大学と合同の田辺校地竣工式が女子大学の恵真館で催された。 当時「新しいカナンの地」「新しい皮袋」とも喩えられたこの真新しい器には、短期大学部第1期生482名と学芸学部音楽学科の全学年282名、という最初の種子がまかれ、同志社女子大学の新しい歴史を刻むことになった。

1997(平成9)年に「田辺町」は「京田辺市」となり、全国的規模での大学改革の時代にあって、短期大学部は2000年4月に「現代社会学部社会システム学科」として改組転換された。その後2005年4月の薬学部設置へと至る京田辺キャンパスの発展の礎は、この時にさかのぼる。

あの日あの時