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第7章 材料選定と施工技術について

煉瓦に込められた数々の思い

日本における煉瓦生産の歴史は、幕末の反射炉築造に端を発し、明治に入ると外国人技術者の指導の下で本格的に生産が開始されることから始まる。
関西では、造幣寮建設のため明治元年に大阪で生産されたのが最も早く、明治18年には京都山科に官営の煉瓦工場が建設され、琵琶湖疎水工事のため大量の煉瓦が生産された。その後、明治30年前後には建築需要の増大に伴って、各地で煉瓦生産の体制が整うようになる。
では、ジェームズ館を始め、同志社建築の象徴とも言える煉瓦はどこで作られたものなのか。ジェームズ館の壁面から構造試験体として採取した煉瓦から、『岸×泉』及び『標×商』の刻印が確認された。この×印は岸和田煉瓦(明治5年に創業し、平成の初期まで煉瓦を生産)が、明治から大正期にかけて採用していた社の商標である。なぜ、岸和田の地で作られた煉瓦が、ジェームズ館で使われたのだろうか。

煉瓦 煉瓦

1)同志社と岸和田煉瓦

『流木』第三号(S15. 3. 15 落合保著)に、岸和田煉瓦の創業者山岡尹方と新島襄の交流の足跡が記されている。
明治5年、建築材として煉瓦の需要が多くなり、岸和田地方の粘土が煉瓦の製造に適していることに着眼した旧岸和田藩の参事山岡尹方が、窯を築いて煉瓦の製造を開始した。煉瓦製造の目的は旧士族の窮乏救済であった。煉瓦製造開始直後は多少の利益を上げるが、士族の商法ゆえか時を経ずして経営難に陥り、事業を瓦生産業社に譲渡することになる。こうした状況下の明治11年、キリスト教を信奉していた岸和田藩主(岡部長職公)が、新島襄に岸和田行を依頼した。
この時、新島襄は門下生数人を連れて山岡尹方を訪ねている。新島襄に啓発された山岡は、初老の身ではあったが同志社神学校に入学し、青年学生に交じって研鑽に励む。やがて、夫人と共にキリスト教の洗礼を受け、岸和田に帰ると自ら教会を創設すると同時に、同志社の後援の下、熱心な伝導を行った。明治時代の伝導活動は決して容易なものではなかったが、徐々に共鳴者も増えていくことになり、志のあるものは同志社に入学した。 他方、山岡の手から離れた煉瓦会社は、依然として経営難の域を脱することが出来なかった。明治21年、人望の厚かった山岡が推されて再び社長となり、煉瓦会社の再建にあたった。その後、岸和田煉瓦で作られた煉瓦は徐々に名声を得るようになり、旧大阪市役所や神戸異人館など関西の著名な煉瓦建築の工事のため出荷されていく。
このような、同志社と岸和田煉瓦の交流から、明治・大正期に建設された同志社煉瓦建築の大半は、岸和田煉瓦で製造されたと考えられる。なお、旧静和館建設時の資料工事費の中で、煉瓦の材料費が工事請負金額とは別に記載されていることも、煉瓦の入手先が同志社と特別な関係にあったことを裏付けている。

2)武田五一と煉瓦建築

現存する武田五一設計の栄光館とジェームズ館の煉瓦には、もう一つ特筆すべきこととして、煉瓦の施工状態が非常に優れている点が挙げられる。特にRC造の栄光館に比べ、構造体として煉瓦造を採用したジェームズ館は、煉瓦の施工状態が建物の強度や安全性を規定してしまう。ジェームズ館は、煉瓦1枚1枚が丁寧に積み上げられた結果、壁面の精度が良く、目地部分も1本1本がコテで押えられている。また、内壁部分も、下塗りを施さなくてもしっくい施工が可能な程の施工精度を保っている。恐らく武田五一が直々に現場指導に当たったと考えられ、そうした思いに応えて、煉瓦職人が丹念に煉瓦を積み上げていった結果ではないだろうか。
この様な当時の設計・施工者の煉瓦造への思いと努力が実り、竣工後85年以上を経過した現在、RC造や鉄骨造とせず、煉瓦造のままで保存活用できることにつながった。煉瓦壁全般に劣化が少なく、部分補修にも構造強度確認のための供試体を転用するなど、当初の材料を活用した。

煉瓦建築

3)卒業生と煉瓦建築

煉瓦造の学舎は、同志社に学んだ卒業生の心象風景として貴重なものであり、旧静和館の解体時には、解体された煉瓦を、集まった卒業生達が各々持ち帰って行くという光景が見られるほどであった。解体時に居合わすことが出来なかった卒業生が、今回の工事現場に来られた折、ジェームズ館の煉瓦を是非とも入手したいとの申し入れがあった。また、今回協力いただいた赤煉瓦博物館からも、ジェームズ館の煉瓦を展示したいとの依頼があった。同志社建築の煉瓦は、今後も多くの方々に注目され続けていくのであろう。

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継承される風景「和瓦」

現在のジェームズ館の屋根瓦は、昭和59年に葺き替えられており、工事を担当した瓦施工業者も廃業しているため、竣工当時の状態を竣工写真から判断した。竣工時に使用された瓦で現存するものは、曲面状の三つ又瓦と、同志社の徴証の入った隅棟の端部の化粧瓦の2種類のみである。現在の日本の瓦生産は、三河(愛知)、淡路(兵庫)、石州(島根)が三大産地であり、先述の葺き替えには淡路産瓦が使用されている。

和瓦 和瓦

1)瓦の産地

では、竣工当時の瓦は、どこで作られどの様な状態を呈していたのだろうか。周知の通り、日本の瓦の歴史は古く、飛鳥時代に仏教の伝来と共に、瓦生産・施工の技術が大陸から導入された。以来、時代や地域によって状況は異なるが、全国各地で地元の需要を賄うため、瓦が生産された。特に、京都では、寺社建築を中心とした新築・葺き替え需要に応えるべく、永々と伝統的な瓦生産・施工の技術が継承されてきた。明治、大正期の京都では、伏見(大上谷)と東山の一角で瓦が作られていた。昭和50年代に入ると、市条例により、京都では瓦の生産が出来なくなったが、重要文化財の建築の葺き替えや改修のため、現在でも京都には高い技術力を持つ瓦施工業者が数多く残っている。こうした瓦施工業者によれば、京都で生産されていた瓦は品質に優れ、他県へ出荷することはあっても、持ち込まれることはありえないと言い切る。旧静和館の三つ又瓦には、岸和田煉瓦の商標『×』印が刻まれており、瓦についても岸和田煉瓦と何らかの関係があった可能性も残るが、同志社の立地から、ジェームズ館を始め屋根材に瓦を採用している明治・大正期の建築は、東山で作られた瓦であると思われる。

2)瓦の形状

葺き替えられた現在の瓦は、JIS規格上「和形桟瓦60」(幅290×奥行290で、一坪当たり60枚敷かれる)に該当する。ところが、竣工当時から葺き替えられていない栄光館は、「和形桟瓦64」(幅275×奥行275、一坪当たり64枚)であり、大きさが微妙に異なっている。大正時代の瓦形状は、桟瓦64が主流であり、竣工当時のジェームズ館も「和形桟瓦64」が使われていたと考えられる。今回の改修工事に当たっては、葺き替え後間もないこともあって現状のままとするが、将来の改修については、竣工当時の「和形桟瓦64」へ復原されることを期待する。

3)軒樋

昭和59年の瓦葺き替えの際、軒樋も改修されており、銅製の既製品が使われている。竣工当時のジェームズ館及び現在の栄光館は、軒樋によって軒瓦の先端部分が隠れ、軒樋の水平線によって軒先のラインがすっきり見える。ところが今回の改修前のジェームズ館は、軒樋が小さく軒先の瓦がハッキリ見えていた。よって、今回の改修に際し、栄光館を参考にしながら、竣工当時の形状への復原を試みた。

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銘石の誉れ“北木石”

同志社の建物といえば煉瓦造という印象が強い。しかし、ジェームズ館に限らず、外観の随所に配された白色系の花崗岩が、煉瓦造の意匠をより際立たせているといっても過言ではない。ジェームズ館の場合、基壇部の腰壁、外壁ボーダー、窓まぐさ、バルコニー、軒下の肘木に花崗岩が使われ、それらの絶妙な配置によって、建物に端正な印象を与えている。現存する武田五一の着彩された立面図からも“赤い”煉瓦と“白い”花崗岩の組合せの意図がうかがえる。花崗岩は古くから京都を含め関西各地に採石所が存在し、瀬戸内に面した中国地方の花崗岩も関西方面で使われている。材料選定に相当なこだわりを示す武田五一は、どこの花崗岩を選定したのだろうか。

花崗岩を使用したバルコニー 花崗岩を使用した肘木

1)花崗岩産地の解明

ジェームズ館で使われた花崗岩の産地を特定すべく、計量証明事業所(イビデン・エンジニアリング)に組成分析を依頼し、科学的アプローチからの解明を試みた。重量分析法及びICP発光分析法により組成を調べた結果、岡山県笠岡市沖に位置する北木島の花崗岩である可能性が高いとの結論が出た。
北木島は、江戸時代の初期から石材採掘が始まり、ジェームズ館が建設された大正期には80ヶ所の採石所を有し、現在でも石材加工を主産業とした“石の島”として知られている。北木島の花崗岩は、光沢が多く組成の分布状態が均一であり、硬度が高い割にねばりがあるため加工性に優れているのが特徴で、古くから銘石と呼ばれてきた。北木石を取扱う岡田石材(株)(広島県福山市)に問い合わせたところ、北木石が使われている著名な近代建築リスト(※1)の中に同志社の名前があった。
明治から大正期にかけて、木造建築中心の日本から近代国家の建設を志向するに際し、光沢のある白い石が近代国家と重ね合わせて都市部の建築に採用された。こうした特徴を安定して大量に有していたのが北木島である。武田五一もまた、この様な銘石に着目し、ジェームズ館の石材として選定したのであろう。なお、このような背景から今回新築した付属棟の外壁にも北木石を採用した。

(※1)北木石が使われた建築物
東京不動銀行本店(旧館)、第一銀行本店(旧館)、日本銀行本店(旧館)、明治生命本店、靖国神社大鳥居、神奈川県立博物館、日本銀行大阪支店、三井銀行船場支店、大阪証券取引所、三井銀行大阪支店、三菱銀行南支店、日本生命本社、三和銀行京都支店、京都五条大橋、薬師寺金堂、薬師寺西ノ塔、南海難波駅コンコース、阪急梅田駅コンコース、帝産中ノ島ビル、金光教本部、大和銀行本店(旧館)、中之島公会堂、同志社大学。最近では岡山県立美術館等がある。

北木島の採石所 (※2)北木島の採石所
(昭和初期頃)
船積みされる北木石の原石 (※3)船積みされる北木石の原石
(昭和初期頃)

2)石の加工技術

大正期、北木島の石は原石のまま船に積まれ、運ばれた先々で加工された。ジェームズ館の場合は、大阪港から陸路で京都に運ばれ、京都の地で加工されたと考えられる。当時の石は全て手加工であったが、ジェームズ館では、窓まぐさには三次元の装飾が幾重にも施され、バルコニーや軒肘木にも曲面や微妙な面落ちなどの繊細な加工の跡がうかがえる。
京都の地では、土地柄、古くから仏像、墓石、灯籠などの石加工の技術が培われ、伝承されてきた。この様な匠の技が、ジェームズ館にも生かされている。
(※1、2、3いずれも岡田石材(株)より資料提供)

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装飾性を抑えた「和」の表現 -しっくい

ジェームズ館の内装には、腰壁上部の壁・天井のライン状部分に白しっくいが塗られ、全て平滑に仕上げられている。廊下のアーチ部分・天井の曲面折り上げ部分など曲面の壁や天井にも塗られているが、やはり平滑に仕上げられる。他の西洋建築に見られるような、天井中心飾りのようなしっくいによる装飾は見られず、唯一東側エントランスの廻り縁の装飾だけに見られる。平滑・均一に塗られた白しっくいは、女学校の校舎らしい落ちつきや清楚さを醸し出している。

しっくいの壁 しっくいの壁

1)装飾性を抑えた潔さ

ジェームズ館では洋風建築にみられる複雑な天井蛇腹を簡潔な曲面の折り上げで処理し、日本の伝統的な折り上げ天井にも似た雰囲気を漂わせている。潔いほど装飾性を抑えたジェームズ館のしっくいの表現は、武田五一らしい「和洋折衷」の「和」の表現だろう。一見簡素と言えなくもないが、このシンプルさが「和」の要素として全体の「和洋折衷」の意匠の中にほど良く調和している。

2)平滑さへのこだわり

煉瓦壁を下地としたしっくい塗りは、煉瓦壁表面に木摺下地を作り、その上にしっくいを塗るのが通常の工法で、仕上厚さは約40mm以上にもなる。ジェームズ館では、煉瓦に直接しっくいを塗る事で、仕上厚さ約15mmで仕上げている。煉瓦に直接しっくいを塗る事ができた理由は2つ考えられる。1つは、煉瓦壁がしっくい塗りの下地として十分な平滑さを持っている事である。煉瓦1つ1つが均質で、精度の高い積み方により平滑な壁を実現している。もう1つは、しっくいの配合が煉瓦壁下地に適していた事だろう。しっくい塗りは、下地の種類、気候条件、施工の時期などの条件に適した配合が重要となる。また、下地となる煉瓦の吸水性などの特性を把握していなければならない。京都という土地柄からすぐれた左官職人は多く、しっくい塗りの高い技術・豊富な知識を持っていた。
木軸壁においては、厚み9mm巾25mmという通常より巾の狭い杉板を使い、8mm巾の目透しとし木摺下地がつくられている。これは、しっくいと下地の付着性を高める工夫だと考えられる。構造的な特性より、木軸壁部分の挙動に配慮し、木摺下地の杉板の間隔を密にし、しっくいの付着性を高めたものと考えられる。
ジェームズ館のしっくい塗りの平滑さは、武田五一の「和」の表現への思いと、京都の左官職人の技術・知識、それに煉瓦の品質の高さ、煉瓦積の施工精度の高さなどが結びつき、それらが組み合わされることで実現したといえる。
改修に際しては、極力現状のしっくい塗りを活かすこととし、劣化部分のみ撤去・塗り直しをおこなった。配合については、現状のしっくいを分析し、当初の配合に近いものとした。仕上がりに関しては、技術の高い職人の手により、当初の平滑さを損なうことのないように留意した。

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木材における「和洋折衷」 -米松と杉

ジェームズ館の内部の床・壁・天井仕上の木材は、米松と杉が使用されている。アメリカ産の米松・日本特有の杉、この2つの木材の組み合わせは、武田五一がジェームズ館における「和洋折衷」の表現をデザイン面からのみならず、木材の材料面からも実現しようとしたものと思われる。

米松 米松

1)米松 ―「洋」の象徴

床の床板張り、腰壁の羽目板、天井板張りに米松の細巾の板材が使われている。床・壁・天井の板張りは、当時の西洋建築に多く使われる代表的な内装材であり、ジェームズ館においても洋風の意匠を表現している。
床の板裏には“KOBE”の刻印が残る。米松の輸入は明治時代から記録が残り、当時は「メリケンマツ」とも呼ばれていた。西洋建築の導入に伴い、その主要な材料として米松が輸入されるようになった。
米松は樹高100m、直径3m前後という巨木で、1本の木から大量の材料を生産する事が可能である。重く硬い材でその耐久性の高さから北米の建物には、構造材、外装材、内装材として使用されてきた。
床の板張りは土足での生活と密接につながっている。西洋建築導入による近代化・西洋化は、技術・産業面のみならず、生活習慣における近代化・西洋化でもあった。ジェームズ館の床板は長さ7.3mですべて柾目取りの尺長の板材が使われている。これは米松でなければ難しく、ジェームズ館の内部デザインの「洋」の面の象徴ともいえる。
板材の継手には「本ざねつぎ」が用いられ、これは西欧、日本ともに用いられる伝統的な継手である。他方、腰の羽目板、天井の板張りの継手には「玉縁さねつぎ」と呼ばれる、「本さねつぎ」の変形の継手が用いられている。この継手は日本の伝統的なもので、単調になりがちな板張に変化を与えている。これは、洋風な板張に日本独特の表現を加えた武田五一の「和洋折衷」のこだわりかもしれない。 ところで、腰の羽目板の玉縁加工は表面だけでなく裏面にも施され、裏表で対称な形状をしている。この加工は機械加工ならではのものだろうが、何を意図したものだったのか。裏面も使用する為だったのか? もともとそのように加工された材料を使ったのか? 現在では図りかねるが、何か理由があったのではないかと考えさせられるところである。
天井は解体が困難なことから表面のみを補修し、壁・腰の羽目板の傷みの激しいものは米松による新材に取り替え、その他は補修した後元の位置に復旧した。

2)杉 ―「和」の技

杉は、見切縁、巾木廻縁などの造作材、建具・建具枠に使用されている。
杉は日本特有の樹木で、樹高3~50m、直径2m程度。北海道を除く日本各地で植林され、野生のものも各地で見られる。肌目はやや粗く、加工が容易であることから、古くから幅広い用途に用いられてきた。
日本全国どこでも入手が容易で、用途が幅広いので、流通があまり発達していない当時では、職人は地元の杉を手に入れ、それを使用することが多かったと思われる。
ジェームズ館に使用されている杉の産地を特定する事は困難だが、京都であることを考えれば、北山杉か、それとも、吉野・紀州などが考えられる。いずれにしても、職人が馴染み深い地元産の杉を使ったのだと思われる。
長い間使われてきたので、傷や欠けは多く見られるが、外部の上下窓は現在でも充分に開閉可能であり、腐蝕、反り、収縮によるすき間などはあまり見られない。野生の杉かどうかは定かではないが、良質の杉が使用されたのではないだろうか。
今回の改修では防音等の視点から新材で造り直すことも検討したが、現在入手可能な杉材では当初材と同様の耐久性を期待できないことから、傷んだ部分の補修や、やすりがけによる調整により工夫し、当初材を活用した。
ジェームズ館の造作材は手加工によると見られる。曲面の面取りが多く、平面と曲面の取り合い、板張りの厚みに合わせた寸法調整など随所に細かな施工が見られる。これらの調整は機械加工では困難であり、すぐれた職人の手によるものと思われる。
建具・建具枠の組立ては、ホゾ組による日本伝統の技術が見られ、京都の建具職人の手によるものだと思われる。建具・建具枠が全て杉というのは、色々な種類の木材が容易に手に入る現在においては、不思議に思えなくもないが、当時においては、西洋建築の建具であっても障子・フスマの延長として馴れ親しんだ材料を使うことが最も良いものを造ることだったのかもしれない。部材に応じた細かな加工は、手加工でなければ難しい部分が多い。そこには職人の伝統的な技術が息づいている。そして、その職人の技をもっとも発揮できる材料は馴れ親しんだ杉であったのだろう。
また、扉枠の竪枠出隅コーナーには、「リターンビード」と呼ばれる円筒状の繰型が施されている。この円筒形の加工は、多少であるが場所によって扁平な部分が見られる。これは手加工ならではのものだと思われる。おそらく西洋の様式を模して加工したのであろう。

米松・杉という西洋・日本を代表する木材。この組合せは一見調和が難しく思うが、「洋」の材料に「和」の意匠を施し、「和」の材料で「洋」の意匠を表現するなど、単純に「洋」と「和」を組合せるのではなく、材料、使用部位、加工技術などを特性に応じて使い分ける事で「洋」と「和」の融合を可能とした。これは「和洋折衷」デザインへの武田五一のこだわりの最たるものではなかろうか。

杉 杉

3)塗装 ―白木の風合

内部木部塗装は、通常ワニスか、オイルステインを使用する。しかしジェームズ館では、天井にはオイルステインを使用しているが、腰、額縁には、なぜかツヤのない顔料を使っている。その顔料が何であるか特定できないが、おそらく材料のムラの補正と汚れ防止のために工夫された最小限の表面処理と思われる。このあたりに、武田五一の白木の風合へのこだわりが見てとれるのではなかろうか。