6月12日は「八ッ橋の日」

2021/05/25

吉海直人(日本語日本文学科 特任教授)

 

京都に「八ッ橋」という有名な銘菓があります。今回はその「八ッ橋」にまつわるお話です。まず「八ッ橋」の由来は御存じでしょうか。調べてみたところ、説が二つに分かれていることがわかりました。みなさんがよく知っているのは古典に基づくもの、つまり『伊勢物語』第九段「東下り章段」に出てくる「八橋」を起源として、橋板に模した煎餅を作ったという説だと思います。

ただしこれだと起源は三河の国(愛知県)になるので、京都との距離が問題になります。そのため三河の無量寿寺の僧から製法を教わり、京都で販売したという創業神話も伝えられています。もちろん『伊勢物語』にしても謡曲『杜若』にしても京都の文学ですから、京都の銘菓として販売されても違和感はありません。光琳の「燕子花(かきつばた)図屏風」や「八ッ橋図屏風」・「八橋蒔絵螺鈿(らでん)硯箱」なども作られているのですから、『伊勢物語』由来というだけで立派な京都銘菓です。

ただし『伊勢物語』自体は虚構ですから、本当に三河に杜若と八橋があったのかどうかは疑問です。というのも、『伊勢物語』を慕って現地にいった人の証言が否定的だからです。例えば『更級日記』には、「橋は名のみして橋のかたもなく」とあります。同様のことは『俊頼髄脳』・『東関紀行』・『問はずがたり』にもあり、誰一人八橋を見た人はありませんでした。杜若にしても、連歌師里村紹巴や茶人小堀遠州はなかったと証言しています。あるいは観光ブームが起こる江戸時代以降、八橋と杜若が再現・整備されたのかもしれません。

それとは別に、有名な筝曲の八橋検校が1685年に亡くなった後、その遺徳を偲ぶために筝の形を模したニッキ入りの堅焼き煎餅が作られ、検校の墓(常光院)がある黒谷の茶店で供せられたのが「八ツ橋」だとする起源説もあります。要するに『伊勢物語』起源と八橋検校起源の二説が存するのです。

現在、京都には「八ッ橋」を製造販売する京都八ッ橋商工業協同組合があり、そこに14の業者が登録しています。有名な西尾八ッ橋、聖護院八ッ橋、井筒八ッ橋などですが、実はそれらの店の創業説話がまさに二つに分かれているのです。『伊勢物語』起源をとるのが西尾八ッ橋で、八橋検校説をとるのが聖護院八ッ橋、井筒八ッ橋などです。ただし聖護院八つ橋は、今でも杜若のデザインを使っています。

もっとも「八ッ橋」が京都銘菓として有名になったのは、明治10年に鉄道が開通した際、西尾松太郎が駅で販売を始めてからだとされています。それ以前の資料は皆無に近いのです。その松太郎の子・為治は世界博覧会に「八ッ橋」を出品して銀賞を受賞するなど、「八ッ橋」の名を全国に広めました。現在のような反りのある「八ッ橋」は、為治によって改良されたものともいわれています。そのため為治は「八ッ橋」中興の祖として讃えられており、熊野神社に銅像が建立されています。

ということで、「八ッ橋」は古くから西尾家が商っていたことがわかります。多くの店はこの西尾から分かれているのです。聖護院八ッ橋にしても、もとは西尾為治が大正15年に立ち上げたものでした。ところが昭和5年に倒産し、代わって専務だった鈴鹿太郎が経営権を獲得し、製造販売を続けました。この鈴鹿太郎は聖護院代表鈴鹿且久の祖父に当たります。

一方、為治の息子為一は、昭和22年に「八ッ橋」の製造販売を再開しました。最初社名を本家聖護院西尾としましたが、聖護院八つ橋側から使用差し止めの提訴があったので、聖護院を削除して本家八ッ橋西尾としています。また次男の為忠は八ッ橋西尾為忠商店を、三男の西村源太郎は本家八ッ橋を設立しています。

こういった「八ッ橋」を製造販売する会社は、商品に自社の起源を紹介しています。八ッ橋検校派は、昭和24年から黒谷の常光院で6月12日(検校の命日)に法要(八ッ橋祭)を行っています。もっとも検校の墓は長く忘れられて無縁仏状態でした。それが新たに発見されたのは昭和9年のことです。その発見が八ッ橋検校説浮上のきっかけになったのかもしれません。ということで検校の墓は、その後八ッ橋製造業者によって守られているのです。

こうして6月22日が記念日になったのですが、聖護院八ッ橋は常光院の法要から抜け、同じ日に独自に法然院で八ッ橋忌を行なっているとのことです。これは聖護院八つ橋が、検校が亡くなった4年後の1689年(元禄2年)創業としていることによるそうです。

※所属・役職は掲載時のものです。