「桃栗三年柿八年」の続き

2019/02/15

吉海 直人(日本語日本文学科 教授)

ことわざは人生訓として今も生き続けています。その背景には、先人たちの数多くの失敗が蓄積されているのではないでしょうか。「転ばぬ先の杖」ではありませんが、昔のことわざは現在に活かしてこそ価値があると思います。

そんなことわざの一つとして、「桃栗三年柿八年」があげられます。意味は、植えてから実がなるまで(収穫まで)に何年かかるかを並べたものです。もちろん比喩的に、物事は一朝一夕にできるものではない、それ相応に時間がかかるものだという教えが含まれているようです。

このことわざは「桃・栗・柿」という馴染みのある3つの果物で短くまとめられています。そこで質問です。これに続くフレーズがあることをご存じでしょうか。もちろん順番ですから、年数はもっと長くなります。そこに地域差というか、場所によって取り上げられる果物に違いが出ているようです。

よく口にされるのは「柚子の大馬鹿十八年」でしょうか。植えてから実がなるまで十八年もかかっては、生産者もたまったものではありません。だから「大馬鹿」なのでしょう。この言い回しを積極的に色紙に書いたのが、あの『二十四の瞳』の作者坪井栄でした。それもあって小豆島にはこの石碑が建立されています。

それとは別に、原田知世主演の角川映画「時をかける少女」もあげられます。1983年に上演されて大ヒットしましたが、その映画の一シーン(授業風景)で、このことわざが登場していました。確か保健体育の先生がこのことわざをあげ、その続きとして「柚子は九年でなりさがる」を紹介した後、さらにその続きとして主役の原田知世が「梨の馬鹿めが十八年」といって大笑いされる場面です。また映画の挿入歌「愛のためいき」の歌詞にもなっていました。

ところで「柚子は九年でなりさがる」に違和感はありませんか。もともと前述の「柚子の大馬鹿十八年」は長すぎます。柚子が実をつけるのに十八年もかかりません。それもあって十八年を半分にして、「柚子は九年で花盛り」とか、「柚子は九年でなりさかる」ともいわれているのです。映画ではこれを「なり下がる」(濁音)としていますが、むしろ「成り盛る」(清音)の方が正解ではないでしょうか。

次に長いフレーズを探してみたところ、「桃栗三年柿八年、梅は酸い酸い十三年、梨はゆるゆる十五年、柚子の大馬鹿十八年、蜜柑のまぬけは二十年」というのがありました。また「桃栗三年柿八年、梅はすいすい十三年、柚子の大馬鹿十八年、林檎にこにこ二十五年、銀杏のきちがい三十年、女房の不作は六十年、亭主の不作はこれまた一生」というバージョンも見つかりました。

この中の「梅」に代わって「枇杷は早くて十三年」というのもあるし、蜜柑に代わって「胡桃の大馬鹿二十年」というのもありました。かなり応用(入れ替え)が利くようです。また「林檎にこにこ二十五年」は長すぎると思われたのか十年短縮して「林檎にこにこ十五年」というバージョンも見つかりました。

これらは原則として実のなる果樹ですが、ことわざですからここから転じて人事に展開することもあります。「女房の不作は六十年」「亭主の不作はこれまた一生」などがそれです。反対に「桃栗三年後家一年」というパロディもありました。これは亭主を亡くした未亡人が一年で再婚してしまうという皮肉が込められているようです。

このことわざの出典は明らかにされていませんが、古いところでは江戸時代の『役者評判蚰蜒(げじげじ)』(1674年刊)という本に、「桃栗三年柿八年、人の命は五十年、夢の浮世にささので遊べ」という歌謡が載っていました。「ささ」は酒のことですから、酒を飲んで楽しく遊べという享楽的なものです。こういった面白さやおかしさも、庶民のことわざには大事な要素です。また松葉軒東井編の『譬喩尽(たとへづくし)』(1786年序)には、「桃栗三年柿八年、枇杷は九年でなり兼ねる、梅は酸い酸い十三年」と出ているので、この頃にはことわざとして確立していたことがわかります。

結構有名なことわざなので、いろはかるたに採用されてもおかしくないのですが、京いろはは「餅は餅屋」だし、江戸いろはは「門前の小僧習はぬ経を読む」が定番です。幕末頃の「尾張いろは」や「大新板以呂波教訓譬艸」にようやく見られる程度なので、いろはかるたでは案外不人気だったことがわかりました。

 

 

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