チキンラーメン誕生秘話

2019/01/30

吉海 直人(日本語日本文学科 教授)

NHKの朝ドラ「まんぷく」で、いよいよ萬平さんがインスタントラーメンの製造に向けて動き出しましたね。このドラマでは、天才的な発明家である萬平さんが、独自にインスタントラーメンを開発するストーリーになっているかと思います。福子が天ぷらを揚げるのを見て、麺を油で揚げる瞬間湯熱乾燥法を発案し、またチキン味にすることでチキンラーメンという商品名が誕生することになるのでしょう。

しかしながら現実のチキンラーメンは、そんなに単純なものではなかったようです。というのも、台湾の郷土料理に素麺を油で揚げた鶏糸麺(ケーシーメン)が存在していたからです。そもそも百福さんは台湾出身(呉百福)でした。妻の安藤仁子と結婚したことで、安藤百福を名乗るようになったのです。もちろん当時の台湾は日本の領土だったので、国籍は日本でした。ひょっとするとドラマで憲兵からひどい扱いを受けた背景には、台湾出身者に対する差別があったのかもしれません。

敗戦後、台湾は独立して中華民国になりました。そのため百福さんの国籍は中華民国に変更されています。その同じ台湾出身の陳栄泰(大和通商)が、チキンラーメンより前に即席「ケーシーメン」を商品化し、昭和33年に東京の百貨店で販売していました。それを大阪でも販売するために、関西の代理店三倉物産が設立されました。興味を持った百福は早速その会社の株主になり、日本人の口に合うようににんにくを使用しない、麺を太くするなどの改良を加え、改めて「チキンラーメン」として販売したという話もあります。それが8月25日だったことから、日清食品はその日を即席ラーメン記念日にしています。

実は同年に、同じく台湾出身の張国文も即席麺「長寿麺」を販売していました。この3社がそれぞれ特許を出願したことで、泥沼的な特許騒動や元祖問題が勃発していました。インスタントラーメン誕生秘話は、ドラマのようなきれいごとでは済まなかったのです。この中で長寿麺は、昭和31年の第一次南極観測隊の食料に採用されており、記録上は一番早いことになりそうです。ただし商品の売れ行きに関しては、百福のチキンラーメンがダントツでした。その理由がまた面白いのです。というのも、会社名をサンシー殖産(中交総社)から日清食品に変更したことが功を奏したからです。

御承知のように昭和33年最大のできごとは、正田美智子様が皇太子殿下と婚約されたことでした(翌年御成婚)。その美智子様の父親・正田英三郎氏は日清製粉の社長でした。必然的にマスコミで日清製粉が頻繁に取り上げられたのです。

チキンラーメンは発売当初、サンシー殖産が無名の会社だったこともあり、安全性などに不安が持たれて売り上げは伸びませんでした。それが日清食品に変更したことで、日清製粉とのつながり、ひいては皇族とかかわりがあると思われ、ミッチー・ブームにあやかるように売り上げが急上昇したという神話もあります。百福はこれに便乗して「ミッチーラーメン」の商標登録まで行なったそうです。もちろんたまたま大量販売のスーパーマーケットが登場したこと、テレビコマーシャルをフル活用したことなどによって、チキンラーメンの需要が急激に伸びたことも確かです。

その後、海外にも市場を拡大するためにアメリカで試食販売したところ、アメリカにはどんぶりも箸もありません。するとバイヤーは麺を割って紙コップに入れ、そこに湯をかけてフォークで食べさせました。それが後のカップヌードルのヒントになったそうです。ただしカップヌードルには問題が二つありました。一つは耐熱容器の開発、もう一つは麺の固まりをいかに均等に揚げるかという課題です。容器はポリスチレンを用いてクリアーしました。麺の揚げ方は、従来の麺を分割して揚げた後で固める方法を思いついたことで解決しました。

もちろん当初は値段が高かったこともあり、スーパーでは扱ってもらえませんでした。やむを得ず自動販売機方式を取り入れて、徐々に売り上げを伸ばしていきました。それが昭和47年にあさま山荘事件が起り、寒い中で機動隊員がカップヌードルをすするシーンが放映されたことで話題になり、それから飛ぶように売れたということです。なんだかつきも味方したようですね。

 

※所属・役職は掲載時のものです。