「蜘蛛」の文学史

2018/12/14

吉海 直人(日本語日本文学科 教授)

いきなり質問です。みなさんは蜘蛛を昆虫だと思っていませんか。でも足の本数が違いますよね。普通、昆虫の足は6本ですが、蜘蛛は8本ですから節足動物の仲間です。さすがに昔の人はちゃんと足の数に目を付けていたようで、『伊勢物語』9段では、

        そこを八橋といひけるは、水ゆく川の蜘蛛手なれば、橋を八つ渡せるによりてなむ、八橋といひける。

と「蜘蛛手(八本)」の例が出ています。夏目漱石の『倫敦塔』にも「この広い倫敦を蜘蛛手十字に往来する汽車も馬車も電気鉄道も鋼条鉄道も」云々とあります。

古代の人は蜘蛛のことを、同じく8本足の蟹と同類と見たのか、「ささ蟹」とも称していました。この場合の「ささ」は「笹」でも「細」でもなく泥蟹の意味とされています。そこから謡曲の「土蜘蛛」へとつながるわけです。見た目も決して美しくない「蜘蛛」ですが、和歌には『日本書紀』から詠まれています。その同じ歌が『古今集』墨滅歌にも、

        我が背子が来べき宵なりささがにの蜘蛛の振る舞いかねてしるしも(1110番)

と出ていました。この場合の「ささがにの」は「蜘蛛」に掛る枕詞です。この歌には、「衣通姫のひとりゐて帝をこひ奉りて」という詞書が付いています。衣通姫は愛する允恭天皇のお越しを、夕方の蜘蛛の巣作りによって察知(期待)したわけです。これは蜘蛛の巣作りは待ち人が来る前兆とする中国由来の俗信から生じたものでした。ただし和歌における用例を見ると、必ずしも待ち人が訪れるのではなく、逆に来ない男を待ち続ける女の歌が多いようです。それこそが恋の主題でした。

なお蜘蛛は、糸を出すことでも知られています。そして「蜘蛛の糸」といえば、芥川龍之介の短編が有名ですね。その「蜘蛛の糸」には日本の古典ではなく、外国文学に出典があったようです。芥川の作品は1918年に「赤い鳥」に発表されました。それ以前の成立ということで探すと、ドストエフスキー著『カラマーゾフの兄弟』(1890年)に収められている「一本の葱(ねぎ)」、ポール・ケーラス著『カルマ』(1894年)にある「The Spider-web」、セルマ・ラーゲルレーヴ著『キリスト伝説集』(1905年)所収の「わが主とペトロ聖者」の三つが指摘されています。

中でもアメリカの宗教学者であるポール・ケーラスが書いた『カルマ(因縁)』は、仏教学者の鈴木大拙によって翻訳され、1898年に『因果の小車』というタイトルで出版されていました。「The Spider-web」はそのまま「蜘蛛の糸」と訳されているし、登場人物のカンダタまで一致しているのですから、芥川の出典というか、芥川が参照したのは鈴木大拙の『因果の小車』でよさそうです。もともと芥川は『今昔物語集』などの古典を素材にして小説に再構築することが多い作家ですね。「蜘蛛の糸」の場合はそれが外国文学だったというわけです。

ついでながら蜘蛛に関しては、「蜘蛛の子を散らすよう」ということわざもあります。蜘蛛の子は、孵化した後も脱皮するまで卵嚢に留まります。それを「団居(まどい)」と呼んでいます。その後、子蜘蛛たちは分散するわけですが、その際、空中に長く糸を出して、風に乗って飛んでいきます。それをバルーニングと称するそうです。東北地方に見られる秋の雪迎えや春の雪送りも、この飛行蜘蛛の糸が正体でした。それは日本だけでなく、なんとシェークスピアの「ロミオとジュリエット」や「リア王」にもゴッサマー(飛行蜘蛛)として出てきます。文学と蜘蛛にはこんなに深い関わりがあったのです。

 

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