童謡「赤とんぼ」について

2018/10/09

吉海 直人(日本語日本文学科 教授)

三木露風作詞・山田耕筰作曲の「赤とんぼ」は、日本を代表する童謡ということで、二〇〇七年には「日本の歌百選」に撰ばれています。作詞されたのは大正十年八月で、「樫の木」という月刊雑誌に掲載されています。しかしながらそれは、題名も歌詞も現在のものとは少し違っていました。

    赤蜻蛉

        一 夕焼、小焼の、山の空、負はれて見たのは、まぼろしか。

        二 山の畑の、桑の実を、小籠に摘んだは、いつの日か。

        三 十五で、ねえやは嫁に行き、お里のたよりも絶えはてた。

        四 夕やけ、こやけの、赤とんぼ、とまつてゐるよ、竿の先。

これに対して改定された(「小鳥の友」所収の)歌詞は、

    赤とんぼ

        一 夕焼、小焼の、あかとんぼ、負はれて見たのは、いつの日か。

        二 山の畑の、桑の実を、小籠に、つんだは、まぼろしか。

        三 十五で、姐やは嫁にゆき、お里の、たよりも、たえはてた。

        四 夕やけ、小やけの、赤とんぼ。とまつてゐるよ、竿の先。

となっています(家森長治郎氏「童謡「赤とんぼ」考」奈良教育大学国文研究と教育4参照)。まず題名が漢字表記だったことがあげられます。次に一番の「山の空」が「あかとんぼ」に変わっています。また一番と二番の末尾が入れ替わっていますね。四番の「赤とんぼとまつてゐるよ竿の先」など、これ以前に露風が作った俳句の一つでした。

この歌詞に山田耕筰が曲を付けたのは昭和二年のことです。なおこのメロディの前半部に関して、シューマン作曲の「序奏と協奏的アレグロニ短調」の中のフレーズに酷似していることが指摘されています。言われてみればなるほど似ています。

ところでこの曲は、昭和三十六年に映画「夕やけ小やけの赤とんぼ」で挿入歌として用いられました。また昭和四十年にはNHK「みんなのうた」に取り上げられたことで、日本中で愛唱されるようになりました。

歌詞については作詞家の三木露風が、自身の幼児体験を思い浮かべながら作ったと証言しています。その頃露風は北海道のトラピスト修道院で働いていました。ちょうど郷里(兵庫県揖西郡龍野町)の小学校の校歌の作詞を頼まれていたようで、そこから連想が働いたのでしょう。調べてみると小さい頃に両親が離婚し、露風は祖父の家で育てられたことがわかりました。北海道へ行ったのはどうやら母を追いかけてのことだったようです。

一番の「負はれて見た」を「追われて」と勘違いしている人もいるようですが、これは子守りに負んぶされて見たということです。その子守が三番に登場している「姐や」です。これを自分の姉さんと思っている人もいるようですが、子守として雇われていた「姐や」(少女)のことで間違いありません。

十五というのは、露風が十五歳になった時ではなく、姐やが十五歳でという意味です。ちょっと早い気もしますね。それよりも難解なのは、その後の「お里」の意味です。これを実家と考えると、誰の実家なのでしょうか。普通は姐やの実家と見ているようです。姐やが嫁に行ったので、実家との連絡も途絶えたというわけです。どうせなら「お里」を姐やの名前としたいところですが、いかがでしょうか。

さて「赤とんぼ」の歌詞を一番から四番まで詳しく見ていると、四番だけが現在形になっており、一番から三番までは過去形になっていることに気付きます。順序が逆ですが、ここから類推されるのは、大人になった露風(作詞当時三十二歳)が、ふと竿の先にとまっている赤とんぼを見て、そこから自分の幼い頃を回想していることになりそうです。

懐かしい姐や、私をおんぶしてくれた姐や。十五で嫁に行った後、消息はわからなくなったが、今も幸せに暮らしているだろうか。夕暮の中、露風はノスタルジーに浸りながら、「赤とんぼ」を作詞したのでしょう。

 

※所属・役職は掲載時のものです。