「的を得る」と「汚名挽回」─三省堂国語辞典の訂正をめぐって─

2018/07/25

吉海 直人(日本語日本文学科 教授)

日本語の慣用表現の中には、間違って使われていると思われているものが少なくありません。例えば「的を射る」と「的を得る」はいかがでしょうか。あなたはどちらが正しいと思いますか。普通には「的を得る」は誤用とされているのですが、既に江戸時代の『尾張方言』という本に「的を得ず」とあるので、単純に誤用とは断言できそうもありません。

もともとこの表現は弓に関わるものですから、武士階級の中で生まれたものと思われます。ですから使用範囲は狭かったはずです。それが庶民に広がったことで、誤用が生じたのかもしれません。ただし必ずしも誤用ではなく、そこに方言が紛れ込んでいる恐れもあります。

政権が京都から江戸に移ったことで、関東の言葉が主流になっていきました。さらにそこに東北方言などが流入することになります。かつて会津藩出身の新島八重について調べていた際、「い」と「え(ゑ)」の区別が曖昧であることに気付きました。それを当てはめると、「いる」と「える」はたちまち相通してしまいます。つまり本人は「射る」のつもりで「える」と発音したものが、相手には「得る」と伝わりそのまま表記された可能性もあるわけです。こうなると単なる誤用とはいえませんね。

まだ他にも考えられることがあります。中国から伝来した「正鵠を得る」という表現と混同された可能性もあるからです。逆に「的を射る」が影響を与えて、「正鵠を射る」という誤用も生じているようです。あるいは「当を得る」との混同も考えられます。

実はこの「的を得る」表現を最初に誤用としたのは、『三省堂国語辞典』の第三版(1982年)だとされています。それが第七版(2013年)に至って誤用云々が削除され、改めて正しい使い方として掲載されました。三省堂は自らの誤りを訂正したのですから、これぞ「一日三度反省する」という三省堂の名にふさわしい行いでしょう。ただしそれによって読者が振り回されたことも事実です。

それともう一つ、「汚名挽回」「汚名回復」という表現も三省堂絡みであげられます。みなさんの中には即座にそれは間違いで、「名誉挽回」「名誉回復」あるいは「汚名返上」が正しいと答える方がいらっしゃるかと思います。これについては1976年に出された土屋道雄著『死にかけた日本語』(英潮社)で指摘されており、それ以来誤用とされるようになったとのことです。

ところが用例を調べてみると、まず「不名誉挽回」が出てきます。同様に「汚名挽回」の使用例も少なくないことがわかりました。なんと吉川英治の『宮本武蔵』にも、「一時の汚名を将来の精進で挽回してくれ」と出ていました。これは「汚名」の状態に戻す(「汚名」を取り戻す)のではなく、「汚名」を受けたものをそれ以前の普通の状態に戻す意味だったのです。類似した例に「疲労回復」や「劣勢挽回」があります。逆に「汚名返上」の古い使用例は探しても見当たりません。もちろん「汚名を雪(そそ)ぐ」なら普通に使われています。

そのため2004年に出された北原保夫著『問題な日本語』(大修館書店)で、誤用ではないという反論が示されました。そんなこんなで『三省堂国語辞典第七版』では、「汚名挽回」を誤用ではないとあえて訂正・明記しています。もちろん辞書が訂正したからといって、それで正しさが証明されたわけではありません。すぐに便乗するのではなく、あらためて用例を調査したり徹底的に議論した上でないと決められません。それにしても三省堂の辞書の影響力は大きいですね。

※所属・役職は掲載時のものです。