祇園祭の「保昌山(ほうしょうやま)」

2018/06/29

吉海 直人(日本語日本文学科 教授)

毎年七月に行なわれている祇園祭は、夏の京都を彩る風物詩として、毎年大勢の観光客が見物に訪れています。祇園祭は京都三大祭(他は葵祭・時代祭)の一つであると同時に、日本三大祭(他は大阪天神祭・東京神田祭)の一つでもあるので、賑やかなのも当然ですね。

その起源は、平安時代前期の貞観11年(869年)まで遡ります。その頃日本全国で地震や旱魃(かんばつ)・疫病などが多発していました。京都でもしばしば疫病が流行しており、そういった災厄を除去するために神泉苑で御霊会が行なわれました。その際、インドの祇園精舎の守護神である牛頭天王(祇園天神)を祀ったことで、祇園御霊会と称されたそうです。

当初は神輿渡御が中心でしたが、鎌倉時代には66本の鉾を立てた山鉾巡行も行なわれるようになりました。その後、応仁の乱(1467年以降)により33年間も中断していますが、八坂神社の祭礼であることに拘らず、町衆によって町の行事としての山鉾巡行が盛大に行なわれるようになりました。今でもこちらが祭りのメインになっていますね。かつては旧暦六月の行事でしたが、新暦以降は七月に行なわれるようになり、十七日が山鉾巡行の日に定められました。これはいわゆる「先の祭」です。最近は二十四日に「後の祭」も復興して行なわれるようになりました。

あまり有名ではないようですが、その山鉾の一つに「保昌山(ほうしょうやま)」があります。「保昌」というのは平安中期の豪傑・藤原保昌のことです。山鉾の上に鎧を身に付けた人形があるのですぐわかるはずです。この「保昌山」、古くは「花盗人山」と称されていました。その由来は、謡曲「花盗人」にあります。もともと保昌は、晩年に和泉式部と再婚していますが、謡曲では若い頃に宮中で和泉式部を見初め、一目ぼれして恋文を送り続けました。和泉式部は保昌の本気度を試すため、紫宸殿に咲く紅梅を一枝折ってきてほしいと所望します。そこで保昌は夜陰に乗じて忍び込み、警護の武士に矢を射掛けられながらも、無事一枝折って戻ってきました。それで保昌のことを「花盗人」と称しているのです。もちろん保昌は願い叶って和泉式部と結ばれました。

和泉式部の娘である小式部内侍が、有名な「大江山」歌を詠んでいますが、それは母である和泉式部が夫保昌に従って、ちょうど任国の丹後国に下向していた時のことでした。もともと「花盗人」はフィクションですが、この話には看過できない問題があります。既にお気づきの方もいらっしゃるかと思いますが、それは紫宸殿に紅梅など植わってないことです。もちろん平安京が造営された当初は、左近の梅・右近の橘でした。それは梅が中国文化を象徴する花だったからです。

ところが仁明天皇の御代にその梅が枯れた後、桜に植え替えられました。その後、現在に至るまでずっと左近の桜になっています。ですから平安中期の和泉式部が紅梅を所望するはずはないのです。そこで気になって謡曲「花盗人」を調べてみたところ、ちゃんと「桜」と書かれていました。桜なら歴史的にも問題はありません。

それにもかかわらず山鉾の「保昌山」を見ると、保昌は見事な枝ぶりの紅梅を手にしているではありませんか。出典である謡曲では「桜」なのに、山鉾は「紅梅」になっているのです。これは祇園祭の謎の一つかもしれません。あるいは梅と武将が登場している別の謡曲「箙(えびら)」(梶原源太景季(かげすえ))との混同が生じているのでしょうか。

なお、「花盗人山」から「保昌山」への改名について、一般には明治になってからとされていますが、宝暦七年(1757年)刊『祇園御霊会細記』には「花盗人山」とあるのに、増補版では「保昌山」となっているので、その頃に変更になったとすべきでしょう。

 

※所属・役職は掲載時のものです。