「端午の節句」について

2018/04/18

吉海 直人(日本語日本文学科 教授)

五月五日はこどもの日、端午の節句ともいいます。祝日法で祝日に制定されたのは一九四八年(昭和二十三年)のことでした。そこで質問です。みなさんはこどもの日から何を連想しますか。「鯉のぼり」という答えが多いようですね。「柏餅」や「粽(ちまき)」も少なくありません。「菖蒲湯」とか「五月人形」は少数派でしょうか。考えてみると、その日にはいろんなものがごっちゃに入っているようです。これも七夕同様、江戸時代あたりにいろいろ付け加えられた可能性があります。

そもそも「端午」の意味をご存じですか。「午」は干支(えと)の「うま」のことです。かつて「午月」は五月のこととされていました。また「端」は端っこや始めの意味なので、月の最初の「午」の日のことを指しました。幸い「午」の音が数字の五に通じることもあり、重陽の節句が整えられる中で旧暦五月五日が端午の節句として固定されたのです。

もちろんこれは日本古来の年中行事ではありません。もとは古い中国の行事でした。紀元前三世紀のことです。楚の国に屈原という有名な詩人・政治家がいましたが、懐王への忠言が聞き入れられず、失意のうちに汨羅(べきら)という川に石を抱いて入水しました。周囲の人々は笹の葉に包んだ米飯(粽の起源)を川に投げ入れ、屈原の遺体が魚に食べられないようにしたということです。それがちょうど五月五日のことでした。ですから五月五日は屈原の命日にあたります。その後、屈原を偲んで五月五日にちまきを食べる風習が始まったのです。

それとは別に、端午と夏至の日にちまきを食べて暑い夏を乗り切るという風習が、中国に古くからあったと言われています。それが奈良時代に日本に伝わって、暑い夏に病気や災厄を避ける行事として定着していったようです。宮廷ではこの日、疫病や災厄を避けるため、薬玉を作ったり家の軒に菖蒲やよもぎを飾ったりました。ですから五月五日は必ずしもこどもの行事でも男の子の節句でもなかったのです。

鎌倉時代(武家社会)になると、菖蒲の葉が剣状になっていること、また菖蒲が「尚武」に通じるところから、武家の男子のお祝いへと変貌していきました。さらに江戸時代になると、徳川幕府は三月三日の女の子の節句の対として、五月五日を武士の男の子のお祝いの日に定めました。それ以降、その日は門の前に馬印や幟(のぼり)を立ててお祝いするようになりました。また鎧兜(よろいかぶと)や刀・武者人形も飾られました。これは武家の男の子の健やかな成長を願ってのことです。

それに連動して、その日菖蒲湯に入る習慣もできてきたようです。もともと菖蒲は邪気を祓う薬草として活用されていました。端午の節句は春から夏への季節の変わり目でもあり、体調を崩しやすいものとされていました。そこで菖蒲湯に入って、心身ともにリラックスする効果が期待されていたのです。

江戸中期になると、端午の節句は徐々に一般庶民の行事としても広がっていきました。鎧など必要ない庶民ですが、武家を真似て作り物の兜や鎧を飾るようになりました。また雛人形の男の子バージョンとして、金太郎や武者人形も飾られました。さらに町人は、幟の代りに手製の鯉のぼりを飾りました。それというのも『後漢書』に「龍門の滝を登った鯉は龍になる」とあることから、「鯉のぼり」に子供の立身出世が祈願されたからです。なんと鯉のぼりは、江戸の町人のアイデアで武士を模倣して創作されたものだったのです。みなさんご存知でしたか。

 

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