「蛍の光」変奏曲

2018/02/13

吉海 直人(日本語日本文学科 教授)

昔は卒業式の定番だった「蛍の光」と「仰げば尊し」ですが、最近の卒業式では歌われなくなりましたね。もっとも「蛍の光」は別な形で、例えばNHKの紅白歌合戦のフィナーレで大合唱されていますし、高校野球の閉会式でも合奏されています。また図書館などの公共施設やデパートなどの商業施設でも、閉店間際にBGMとして流されることが多いようです。

日本人には馴染みの深い「蛍の光」ですが、この曲の背景には興味深い歴史的変遷があります。まず、原曲がスコットランド民謡だとういことはご存じですか。地元では「オールド・ラング・サイン」という曲名で親しまれており、準国歌扱いになっています。しかも卒業式どころか新年のお祝いや結婚式でも歌われているとのことです。もし日本の結婚式で「蛍の光」が歌われたら、縁起が悪いといわれそうですね。

次に、この曲が讃美歌にもあることはご存じでしょうか。こちらは讃美歌370番「目覚めよ我が霊(たま)」として知られています。おそらく日本には、讃美歌として入ってきたのではないでしょうか。

さてここで質問です。みなさんは「四七(よな)抜き」という音楽用語を聞いたことありますか。これはドレミを番号に置き換えると、4番目がファで7番目がシになります。そのファとシが使われていない五音階のことを四七抜きといいます。もともと日本の古い音楽はこの四七抜きでした。幸い「蛍の光」の原曲も四七抜きだったことから、簡単に日本に溶け込めたというわけです。

そのためこの曲を尋常小学校唱歌に採用することになりました。その際、現在のような歌詞を稲垣千頴(ちかい)が作詞して「蛍」という曲に生まれ変わったというわけです。それは明治14年のことでした。

ところで「蛍の光」は原曲では四拍子の曲でしたが、「哀愁」という洋画でワルツ(三拍子)に編曲されて使われました。そこで日本でも小関裕而が採譜と編曲を手がけ、「別れのワルツ」として売り出しました。演奏しているユージン・コスマン管絃楽団は架空のもので、実は小関裕而から名付けたものだったそうです。閉店間際のBGMには、こちらを流すことが多いようです。スローテンポですのですぐわかります。

次に歌詞についてお話します。出だしの「蛍の光窓の雪」が中国の「蛍雪の功」という故事にちなむことはご存じですよね。「蛍」の方は、東晋の車胤は貧乏で灯り用の油が買えなかったので、蛍を集めてその光で本を読んで勉強し、後に偉い人になったという話です。中国の蛍は大きいそうですが、一体何匹集めれば文字が読めるのでしょうか。

「雪」については、同時代の孫康も貧しくて、窓に積もった雪に反射する月の光で勉強し、後に立派な高官に出世したという話です。二人とも貧しい生活の中で苦学して勉強したお手本というわけです。そんないい話に水を差すようで心苦しいのですが、当時の書物は油なんかよりずっと高額でした。油も買えないような家で、本が読めるはずはなかったのです。逆に本が買えるような家なら、油を買うことなど容易だったはずです。

また三番に「別るる道は変るとも、変らぬ心行き通ひ」とあったところ、これは男女間の交際に用いられる表現だと学務局長から指摘されたことで、急遽「海山遠く隔つとも、その真心は隔てなく」と改訂されたとのことです。
私がいいたいのはそんなことではありません。ほとんど知られていない四番の歌詞に注目してください。原作では、

        千島の奥も沖縄も八州(やしま)の外の守りなり 務めよ我が背つつがなく

とありました。「八州」は日本のことです。当初は「千島」「沖縄」は日本の領土の外とされていましたが、明治政府による領土拡大に合わせるかのように、歌詞が改訂されていきます。

まずは千島樺太交換条約や琉球の領土確定の後、

        千島の奥も沖縄も八州の内の守りなり

と改訂されました。八州の「外」だったものが八州の「内」になったのです。続いて日清戦争によって台湾が割譲されると、

        千島の奥も台湾も八州の内の守りなり

と、沖縄から台湾に領土が拡張されました。さらに日露戦争の後には、

        台湾の果ても樺太も八州の内の守りなり

と、千島が樺太に変えられています。なんと卒業式に歌う「蛍の光」の歌詞に、国家政策としての領土拡大の成果が込められていたのです。それもあって四番は堂々と歌えなくなっているようです。

なお「務めよ我が背」とある点に注目すると、この歌は女性視点になっていることがわかります。夫や恋人を戦地に送り出す女性の立場から歌われているということです。こうなるともはや卒業式の歌ではないですね。

※所属・役職は掲載時のものです。