「七草粥(がゆ)」の由来

2017/12/27

吉海 直人(日本語日本文学科 教授)

一月七日は「七草粥」の日です。昔はそのために野原に出て「七草摘み」を行っていました。最近は手軽にスーパーで「七草粥セット」を求めることができますから、便利な世の中になったものです。その分、ちょっと味気ないかもしれませんが。

ではみなさんは何故この日に「七草粥」を食べるのでしょうか。今回はその由来を紐解いてみましょう。日本の年中行事のほとんどは、中国から伝わったもののようです。「七草粥」にしても、一月七日(五節句の一つ「人日」)に「七種菜羹」を食べる風習が六世紀頃にはあったようです。

年中行事について記された『荊楚歳時記』には、

        正月七日、人日と為し、七種菜を以って羹と為す

と記されています。それが日本に伝わって、「七草粥」が食べられるようになったというわけです。そのことは『枕草子』の中に、
        七日、雪間の若菜摘み、青やかにて、(三段)

        七日の日の若菜を六日人の持て来、さわぎ取り散らしなどするに、(一二六段)

などとあることからも察せられます。

もともと冬の寒い時期ですから、栄養(ビタミン)の補給が根底にありました。そこに無病息災や邪気祓いの願いも付与されています。かなりこじつけですが、「せり」は「競り勝つ」、なずなは「撫でて穢れを除く」、「ごぎょう」が「御形」で仏様のお体、「はこべら」は「繁栄がはびこる」、「ほとけのざ」はそのまま「仏の御座」、「すずな」は神様を招く「鈴」菜、「すずしろ」は「汚れなき清白」を意味し、それを食べることによって健康や幸福を祈ったのです(『源氏物語』の「若菜」巻にしても、長寿を祈る儀式)。

中国ではその日、官吏の登用が行われていたことから、立身出世の祈願も込められていました。日本でも古くから縁起物の「若菜摘み」が行われていたようです。百人一首で有名な光孝天皇の、

                       君がため春の野に出でて若菜摘む我が衣手に雪は降りつつ(古今集二一番)

がその好例です。もっともこの頃は宮廷貴族の行事であり、まだ一般庶民の年中行事としては広まっていませんでした。

その「若菜摘み」が中国の影響を受け、徐々に一般庶民に浸透していくうちに、「七草」が定められていきました。ただし鎌倉時代までは中国同様「七草羹」(吸い物)にしていたようです。それとは別に「七草粥」もありましたが、材料は米・あわ・小豆・きび・ひえ・ごま・みのなどの穀物が主体でした。要するにある時期まで「七草羹」と「七草粥」の二種類が並存していたのです。これが混同される中で、「羹」が「粥」に変化し、現在のような「七草粥」になったのは室町時代頃とされています。

ところでみなさんは「春の七草」を覚える歌を知っていますか。それは、

                       せりなずなごぎょうはこべらほとけのざすずなすずしろこれぞ七草

です。残念なことに、この歌の成立はよくわかりません。一説には『源氏物語』の注釈書である『河海抄』(四辻善成著・南北朝成立)の若菜巻の注が原点と言われていますが、そこに和歌は出ていません。むしろ『梵灯庵袖下集』(一三四〇年頃成立)の中に、

                       せりなずなごぎやうはこべら仏のざすずなすずしろ是は七種

と出ているので、この頃には既に歌の形式にされていたことがわかります。

面白いことに秋の七草は山上憶良が『万葉集』で詠んでいるのに対して、春の七草はかなり遅れて成立していることになります。それは秋の七草が花(美的)であるのに対して、春の七草は食用(実用)だからではないでしょうか。

さあ今年も七草粥を食べて、この一年も元気に頑張りましょう。

 

※所属・役職は掲載時のものです。