童謡「春が来た」の「に」と「で」

2017/04/12


吉海 直人(日本語日本文学科 教授)

日本人ならあまり問題にならないことですが、日本語を学習している外国人から質問されて説明に困ることがあります。童謡「春が来た」という歌に出ている「に」と「で」がその一例です。まずその歌詞をあげてみましょう。

1番 春が来た 春が来た どこに来た 山に来た 里に来た 野にも来た

2番 花が咲く 花が咲く どこに咲く 山に咲く 里に咲く 野にも咲く

3番 鳥が鳴く 鳥が鳴く どこで鳴く 山で鳴く 里で鳴く 野でも鳴く

これは東京音楽大学の高野辰之という有名な国文学者が作詞したものです。彼は作曲家の岡野貞一と組んで、有名な「春の小川」「朧月夜」「もみじ」「故郷」などを作詞しています。なおこの歌には、春の到来を知る手段として「花」と「鳥」が用いられています。それにふさわしいのは「梅」と「鶯」でしょうか。問題は3番の歌詞が「に」から「で」になっていることです。さてみなさんはこの「に」と「で」の違いを説明できますか。

一般に日本語教育では、存在(状態)の場所が「に」で、動作の場所が「で」と説明されています。また「に」は動作や作用の到達点を示し、「で」は動作(行為)や作用が行われる場所を表すとも説明されています。確かに花は状態で、鳥の鳴き声は動作ですね。場合によっては、「で」は選択された場所を表すともされています。

こうやっていろいろ考えていると、後に来る動詞が異なっていることに気付きませんか。「来る」(行く)は「山に来た」とは言いますが、「山で来た」とは言いません。こういった接続の有無で用法を説明するのも、現代語学の有効な方法とされているようです。

もちろん動詞を共有するものもあります。その場合は微妙に意味が異なります。「公園にゴミを棄てるな」と「公園でゴミを棄てるな」はどうでしょうか。「で」は行為が公園内で行われるのに対して、「に」は公園外からの行為でも可能のようです。また「ここに寝て」と「ここで寝て」はどうでしょうか。「に」は病院の診察ベッドを示している感じで、「で」は人の家(空間)に泊めてもらう感じです。当然「に」は横になる意味であり、「で」は就寝の意味になります。「みんなに言う」と「みんなで言う」も意味が大きく異なりますね。

それが「も」と合体して「にも」「でも」となった場合、たとえば「子供にもできる」と「子供でもできる」はどうでしょうか。「でもしか先生」も同様です。かつてバスケットボールを素材にしたマンガに、「ちびでも選手」というタイトルのものがありました。これなど対象外というか、できそうもないものを例にしているようです。この場合「ちびにも選手」とは言いませんね。

肝心の「山で鳴く」ですが、これは「山に鳴く」でも使えます。その場合、意味はどう違うのでしょうか(違わないのでしょうか)。ちょっと難しくなってきましたね。「で」の場合は、複数の鳥がそれぞれ異なる場所で鳴いている感じです。それが「に」だと、一羽の鳥が飛びまわりながら場所を変えて鳴いている感じです。この答えに納得できますか。

さて、ここまでは現代語として考えてきました。ここで発想を転換して言葉の歴史的変遷を考慮してみましょう。すると「に」と「で」の使い分けは成立しなくなってしまいます。というのも、「で」は「にて」から発生した比較的新しい助詞であり、古典の世界には存在しないからです。古く『万葉集』には(では)、

・冬ごもり春さり来らしあしひきの山にも野にもうぐひす鳴くも(一八二四)

・あしひきの山にも野にもほととぎす鳴きしとよめば…(三九九三長歌)

などと歌われており、「鳴く」と「にも」が普通に結びついています。また『古今集』仮名序にも「花に鳴く鶯、水に住む蛙」とあります(現代語でも「水で住む」とは言わない)。要するに「山で鳴く」は近代的(後発的)な表現だったわけです。古典を専攻する私の答えとしては、これがベストアンサーです。

それとは別に、春の訪れということでは、春は南から北へ、低地から高地へと推移するので、山→里→野という歌の順番には違和感があります。普通に考えれば山は最後になるはずだからです。あるいは「野」が一音なので、これを最後に回すことで「にも」をつけて語調を整えているのかもしれません。こんなところにも考える材料はころがっているものです。

 

※所属・役職は掲載時のものです。