実のならない八重山吹

2016/08/01

吉海 直人(日本語日本文学科 教授)
 

15世紀に活躍した武将太田道灌のことはご存知ですよね。ある日、道灌が鷹狩に出かけたところ、急に雨が降ってきました。近くの粗末な小屋で蓑を借りようとしたところ、中から若い娘が出てきて、黙って山吹の花一枝を道灌に差し出します。花を求めたのではないのにと、道灌は娘の真意もわからぬまま怒って立ち去りました。

後でそのことを家臣に話すと、それは、

七重八重花は咲けども山吹の実の一つだになきぞ悲しき

という古歌を踏まえたもので、娘は貧乏で道灌様にお貸しする蓑一つもございませんということを、山吹に託してそっと告げたのでしょうと語りました。それを聞いた道灌は自らの無学を恥じ、それ以来和歌に精進し、立派な歌人になったと言われています。

この話は湯浅常山の『常山紀談』に掲載されており、江戸時代には教訓説話として人口に膾炙されていました。そのため「太田道灌借蓑図」と題されて絵画化されており、浮世絵の題材にまでなっています。その絵には大槻磐渓作とされる以下のような漢詩(七言絶句)まで添えられています。

孤鞍(こあん)雨を衝(つ)いて茅茨(ぼうし)を叩く
少女為に遣(おく)る花一枝(いっし)
少女は言はず花語らず
英雄の心緒乱れて糸の如し

落語の『道灌』では、ご隠居からその絵の掛け軸を見せられ、道灌の逸話をたっぷり聞かされた八っつあんが、早速提灯(ちょうちん)を借りにきた友人に、「お前さん歌道に暗いな」と言ったところ、「角(かど)が暗いから提灯借りに来たんだ」と言い返される落ちになっています。

それとは別に初代林屋正蔵は、夕立の折に八百屋の亭主が白瓜と丸漬けの茄子を並べて、

丸漬けやなすび白瓜ある中に今一つだになきぞ悲しき

という歌を作ります。雨具を借りにきた友達が「この中に胡瓜(きゅうり)がない」と言うと、待ってましたとばかり「はい、かっぱはございません」と答えるのが落ちです(胡瓜のことを河童といい、それを雨合羽に掛けています)。

ところで、ここに詠じられた古歌は、娘の作とされていることもありますが、正しくは『後拾遺集』所収の兼明親王(醍醐天皇皇子)の歌でした。その歌には長い詞書が付いています。

小倉の家に住み侍りけるころ、雨の降りける日、蓑借る人の侍りければ、山吹の枝を折りて取らせて侍りけり。心も得でまかりすぎて、またの日山吹の心得ざりしよし言ひにをこせて侍りける返しに言ひつかはしける

中務卿兼明親王

七重八重花は咲けども山吹の実の一つだになきぞあやしき(一一五五番)

 

平安時代の話ですから、場所は京都嵯峨野の小倉になっています。雨の日に蓑を借りに来た人に山吹の枝を渡したところ、なんとも合点がいかずその訳を尋ねてきたので、この歌を詠んで送ったというものです。話の構造からして、この詞書が換骨奪胎されて道灌説話に仕立てられていることが察せられます。

 

ところでこの話で一番肝心なのは、山吹の「実の」に雨具の「蓑」が掛けられていることです。山吹はバラ科の植物で、晩春から初夏に掛けて黄色い花を咲かせますね。その山吹には本当に実がならないのでしょうか。

植物学的には、一重の山吹には普通に実がなりますが、八重は雄しべが花弁に変化しているため花粉ができず、また雌しべも退化しているので実がつかないと説明されています。古く『万葉集』に、

花咲きて実はならねども長き日におもほゆるかも山吹の花(一八六〇番)

と歌われており、八重山吹に実がならないことは周知の事実だったようです。勉強になりますね。

 

※所属・役職は掲載時のものです。