「ちはやふる」か「ちはやぶる」か

2016/05/17

吉海 直人(日本語日本文学科 教授)

 

マンガ「ちはやふる」(末次由紀)の大ヒットによって、競技かるたの大会に参加する子供達が激増しているとのことです。それがさらにテレビの深夜放送で放映されたことで、知らない間に世界各国にまで浸透しているらしく、外国人の競技かるたへの関心も高まっています。

そして今年、ついに実写版(広瀬すず主演)の映画まで製作されました。一般社団法人全日本かるた協会は全面的に協力しているのですが、それによって逆に大きな違和感が生じてしまいました。それがタイトルの「ちはやふる」か「ちはやぶる」かということです。ご承知のように、競技かるたの読みは「ぶる」と濁っています。それに対して映画のタイトルは「ふる」と清音ですから、気にならないわけはありません。協会の役員など、「どっちが正しいのですか」とか「どうして統一していないのですか」という問い合わせが殺到しないかひやひやしているそうです。

実はこの問題は、過去にもありました。それは落語の「ちはやふる」です。落語もマンガと同様に清音で語られているので、「どっちが正しいのか」という疑問の声があがっていたのです。ただし落語ですから、さほど目くじらを立てる人はいませんでした。それがマンガとなると、子供達がどっちで覚えたらいいのか混乱してしまうので、教育的にも無視できなくなったのでしょう。

とはいえ、文法的にどっちが正しいという判定はできません。どっちも間違いではないというのが正解だからです。古く『万葉集』で枕詞として用いられているのですが、その漢字が統一されておらず、「千磐・破」「千早・振」「知波夜・布流」などさまざまに表記されています。そのうち「破る」は濁音ですが、「布流」は清音です。要するに『万葉集』の時点で、清濁両用が並存していたのです。もともと枕詞には意味不明のものも多いので、その方が納得できます。

それが平安時代以降、次第に清音の方に傾いていきました。室町時代の「日甫辞書」に「チワヤフル」とあるので、その頃清音で読まれていたことがわかります。それが江戸時代にも継承されたことで、落語は清音を踏襲しているのでしょう。ですから百人一首においても、清音で読まれていた時代はかなり長かったことになります。

ところが近代の『万葉集』研究の中で、勢いの強い・勇猛な意味を有する「ちはやぶ・いちはやぶ」が語源と考えられたことで、「破る」の方が選び取られ、濁って読む方が主流になったようです。最近の辞書など清音には一切ふれず、「ちはやぶる」だけで済ませているものも少なくありません。競技かるたの読みは、そういった時代背景の中で濁音になっているのではないでしょうか。

確認のため、最初の競技用かるたである「標準かるた」(明治37年成立)の読み札を調べてみたところ、なんと清音になっているではありませんか(既に濁音表記は入っています)。それが次の「公定かるた」になると、濁音に訂正されていました。そうなると競技かるたが濁音になったのは、大正14年以降ということになります。そのことは「公定かるた」の版元である東京図案印刷から出された『百人一首かるたの話』(大正15年)の中で、「ちはやぶるが正しい」とされていることによって確認できます。

それが現在まで受け継がれてきたのですから、たとえ大した根拠がなくても、今さら清音に変更することは難しいかもしれませんね。というより、マンガがこんなにヒットしなければ、清濁云々はここまで問題にされなかったでしょう。その意味で「ちはやふる」は、全日本かるた協会にとって「もろ刃のやいば」なのかもしれません。せっかくですから、これを機にきちんと清濁の是非を検討してみてはいかがでしょうか。

〔追記〕先日、NHKの朝ドラ「トト姉ちゃん」でかるた取りのシーンがありました。そこで業平の歌も読みあげられましたが、さて「ぶる」だったでしょうか「ふる」だったでしょうか。

 

※所属・役職は掲載時のものです。