「節分」について

2016/02/03

吉海 直人(日本語日本文学科 教授)

 

2月4日は立春ですね。ではその前日の2月3日は何の日だか知っていますか。答えはもちろん「節分」です。では「節分」の意味をご存じですか。本来「節分」は「節」(季節)を「分」けるという意味ですから、季節の変わり目毎に年4回ありました。すなわち立春・立夏・立秋・立冬の前日の4回です。ところが現在では、「節分」といえば立春の前日のことを指すようになっています。

ただし2月3日という日付にほとんど意味はありません。新暦を旧暦に戻すと、「節分」はおおむね大晦日(12月30日)に当ります(旧暦に31日は存在しません)。この日に邪気を祓うのは、新年を無病息災で迎えるためです。ところが明治6年に新暦に改暦されました。その後、正月は旧暦の日付のまま行われているのに対して、節分は新暦換算されて2月に行われるようになったため、大晦日というとらえ方ができなくなってしまったのです。かろうじて「節分」の日に年越しそばを食べる風習は、今もわずかながら残っているようです(蕎麦は長く伸びるから縁起がいいのです)。

次に「節分」の起源ですが、旧暦の大晦日には「追儺」(ついな・おにやらい)という儀式が行われていました。その起源は中国です。それが日本に伝わり宮廷の年中行事になりました。『続日本紀』によると、文武天皇の慶雲3年(607年)に疫病を鎮めるために行われたのが初出とされています。要するに疫病をもたらす悪い鬼を追い払うのが「追儺」なのです。

その「追儺」が「節分」の元になっているのですが、現在のように豆撒きが行われるようになったのは、宇多天皇の時代とされています。鞍馬山の鬼が都に出没した時、鬼の目(魔目)に豆を投げつけて退治した故事に由来するとのことです。最初は「豆撒き」ではなく「豆打ち」でした。そもそも鬼が登場するのは、丑寅(北東)の方角が「鬼門」とされているからです。そのため鬼は牛の角を生やし、虎の牙を持ち、また虎の皮を身にまとっているのです。

では豆を撒く際に「鬼は外、福は内」と唱えるようになったのは、一体いつからなのでしょうか。『臥雲日件録』(1447年成立)という本に「唱鬼外福内」と記されているので、これが始まりとされています。そもそも何故豆を撒くのかというと、語呂合わせで「豆」が「魔を滅する」ものだからです。なお撒いた豆から芽が出るのは縁起が悪いとされているため、必ず炒った豆を使うことになっています。

同様に柊の枝に焼いた鰯の頭を刺して門や玄関に飾るのは何故でしょうか。柊のぎざぎざした葉は鬼の目を突くというので、鬼が避けるとされています。また焼いた鰯の頭は、その悪臭を鬼が嫌がると考えられているようです。これらは鬼が家の中に入ってこないための鬼除けなのです。

余談ですが、苗字に「鬼」が付く人(鬼頭さん・鬼塚さん・九鬼さんなど)の家では「鬼は外」とはいえませんから、「福は内、鬼は(も)内」と唱えているとのことです。雑司が谷にある鬼子母神でも「鬼は内」です。豆を撒きながら「鬼は外、福は内、天に花咲き地に実なれ、鬼の目ん玉ぶっつぶせ」という呪文を唱えるところもあるそうです。面白いですね。

なお関西では、節分に恵方巻(海苔巻)を丸かじりする習慣があります。包丁で切らずに丸かじりするのは、縁を切らないようにするためです。ただしこれは必ずしも宗教的な行事ではなく、大阪の海苔問屋組合がイベントとして行ったものが徐々に定着したといわれています(土用の丑のうなぎと同様)。中に巻き込む具を七種にすることで「七福神」に見立て、「福を食べる」と説明しています。

 

※所属・役職は掲載時のものです。