もう立秋です

2015/08/19

吉海 直人(日本語日本文学科 教授)

 

旧暦のカレンダーを見ると、今年は8月8日が立秋になっていました。立秋というのは、太陽黄経が135度になる日のことだそうです。なんだかよくわからない説明ですが、要するに夏至(90度)と秋分の日(180度)の真ん中ということで、秋の始まりの日です。

ただ立秋になったからといって、急に涼しくなるわけではありません。むしろ暑さの頂点を過ぎたと思った方が納得できるかと思います。頂点を過ぎるのですから、当分暑さはやわらぎません。この暑さは「残暑」と表現されています。それを受けて立秋を過ぎると、手紙の挨拶文も「暑中見舞い」から「残暑見舞い」になります。

ところでみなさんは、何によって秋の訪れを感じますか。目で見てそれとわかるのは、雲の形の変化でしょうか。あるいは赤とんぼが飛んでいるのを見つけた時でしょうか。つくつくぼうしが鳴きだすと、秋が近づいたと感じる人もいるようです。これは聴覚による知覚ですね。

一般には、肌で涼しさを感じた時という答えが多いようです。昼間の暑さは変わらなくても、夕方になって涼しい風が吹くと、ああ秋が近づいているなと感じます。ですから平安時代の人は、「風の音」によって秋の訪れを感じました。『古今集』秋上の最初には藤原敏行の、

秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる

という歌が置かれています。秋の部の最初ですから、当然「初秋」の歌です。詞書を見ると「秋立つ日よめる」と記されています。これこそ立秋の日に詠まれた歌なのです。

敏行は、秋の訪れは視覚的にはっきり認識することはできないけれども、「風の音」によって察せられると歌っています。「おどろく」とあっても、決してびっくりするわけではありません。「~におどろく」というのは漢詩の常套表現だそうです。完了の助動詞「ぬる」にしても、ここでは詠嘆に近い用法です。むしろ読者の共感・同意を求めているのかもしれません。

そもそも「風」は一年中吹いていますよね。それにもかかわらず、和歌で「風の音」とあったら、それはほぼ秋に限定されていると思ってください。「風の音」は秋の季節にもっともふさわしいとされているのです。それは単に聴覚だけではありません。肌で涼しさも感じ取っているのですから、同時に触覚も働いています。聴覚と触覚と二重に秋を察知しているのです。

もちろん立秋の少し前でも、夕方の涼しさは感じられます。百人一首で有名な藤原家隆の、

 風そよぐならの小川の夕暮はみそぎぞ夏のしるしなりける

は水無月祓い(夏の終わり)の歌ですが、夕方のならの小川をそよぐ風から、家隆は既に秋を看取しています。風の涼しさに秋の訪れを知覚しているのに、暦の上ではまだ夏という季節のずれがこの歌の主眼です。要するに季節の変わり目(境界線)が、和歌では非常に重要なのです。これが四季に富んだ日本の季節感と言えます。

 

※所属・役職は掲載時のものです。