七夕の由来

2015/07/01

吉海 直人(日本語日本文学科 教授)
 

7月7日は七夕(星祭り)ですね。当日の夜、晴れていたら空を見上げて天の川(ミルキーウェイ)を見つけて下さい。夏の大三角形はわかりますか。天の川を跨ぐ琴座のベガが織姫(織女)で、鷲座のアルタイルが彦星(牽牛)です。二人は非常に働き者でしたが、夫婦になった途端に怠け者になってしまいます。怒った天帝は二人を引き離し、年に一度だけ逢うことを許しました。それが一般的な七夕伝説です。その夜は、彦星と織姫が一年に一度だけ逢える日とされています。ロマンチックですよね。

この牽牛と織女の初出は中国の『詩経』とされています。それが『文選』の「古詩十九詩」になると、既に悲恋の要素が付与されています。しかしまだ7月7日との関連(限定)は認められません。それがさらに『荊楚歳時記』になると、七夕伝説(悲恋物語)の骨格がほぼ完成しています。

それとは別に、中国には手芸の上達を願う乞巧奠(きつこうでん)という年中行事がありました。ともに7月7日の話なので、いつしか七夕伝説と乞巧奠が混同されていったようです。それが日本にも伝わり、平安貴族たちはその日に技芸の上達を祈ったそうです。その際、里芋の葉に置いた露を集めて墨をすり、梶の葉に歌を書いて手向けるのが一般的でした。冷泉家では、現在でも乞巧奠が年中行事(五節句の一つ)として行われています。

やっかいなことに、七夕伝説と乞巧奠の混同だけでは七夕の説明はつきません。というのも、現在メインになっている笹の葉に願い事を書いた短冊を吊るすという風習は、古い文献に一切見られないからです。要するに短冊については、後から付け加えられたものということになります。

それを合理的に説明するために、棚幡(たなばた)という豊作を祈る農耕儀礼(日本的要素)が導入されています。「たなばた」という呼称の一致が、混同の最大の要因のようです。『江戸鹿子』(貞享4年)を見ると、「江戸中の子供短冊を七夕に奉る」とあり、ようやく短冊のことが記されています。ですから現在の七夕は、江戸時代に確立した日本固有の風習ということになりそうです。

なお日本では、七夕に雨が降ると二人は逢えないと思われていますが、お隣の韓国では、雨は織女の嬉し泣きと考えられており、むしろ雨が降った方が喜ばれているようです。また日本では、彦星(男性)が織姫に逢いに行くとされていますが、中国では織女が牽牛のところに逢いに行きます。その際、鵲が羽を広げて織女を渡すことになっています。天の川を渡るのが男なのか女なのか、日本と中国では逆になっているのです。ご存知でしたか。

ところで本来の七夕は旧暦の7月なので、季節は秋でした。それが新暦ではなんだか夏の年中行事のようになっています。そのため七夕を旧暦で行っているところもあります。さらに仙台の七夕祭りなど、月遅れの8月7日に定めて行っています。厳密にいうと、七夕の日は現在3種類もあるわけです。

ついでにいうと、一日のずれも生じています。みなさんは七夕ということで、当然7日の夜に行われる祭りだと思っていませんか。実はかつては6日の深夜に笹が飾られ、翌7日にはその笹を川や海に流していました。七夕は6日の夜から7日の朝にかけて行われる祭りだったのです。因みに7月6日は、サラダ記念日ならぬ私の誕生日です。

最後にもう一つ、みなさんは恋人がほしいとか、虫のいいお願いを短冊に書いてはいませんか。そんな欲張ったお願いなど神様は叶えてくれません。自分のやりたいことを表明し、その目標達成に向けて努力することを神様に誓う、というのはいかがでしょうか。

 

※所属・役職は掲載時のものです。