葵祭と『源氏物語』
吉海 直人(日本語日本文学科 教授)
京都では毎年5月15日に葵祭が行われています。これは弘仁元年(810年)に始められた賀茂神社の例祭です。嵯峨天皇が伊勢の〈斎宮〉にならって賀茂の〈斎院〉を設け、皇女有智子内親王を初代斎院に任じたのがその起こりです。現在は観光行事の要素が付加されており、皇族の〈斎王(斎院)〉に代って民間の〈斎王代〉が撰ばれており、京都三代祭(葵祭・祇園祭・時代祭)の1つとされています。また宮中から勅使が派遣される日本三代勅祭の1つ(春日祭・岩清水祭〈南祭〉・葵祭〈北祭〉)でもあります。
『源氏物語』葵巻にはこの葵祭見物をめぐって、葵の上と六条御息所との「車争い」が描かれています。ところで誤解している人も少なくないようですが、有名な「車争い」が起こったのは、決して祭の当日ではありませんでした。それは祭以前の午(うま)または未(ひつじ)の日に行われる斎院御禊(ぎょけい)の日のできごとだったのです。
この年、桐壺帝が譲位し、それを受けて弘徽殿腹の東宮(朱雀帝)が即位しました。そのため通常より賑やかな祭が計画されたようです。その目玉商品は、光源氏が御禊の行列に供奉(ぐぶ)することでした。これは行列を盛り上げるための特別なはからいなのですが、右大将という重々しい源氏の職掌からすれば、格下の役目を仰せつかったことになります。ですから光源氏にとってみれば、決して素直に喜べるものではありませんでした。そこに朱雀帝新体制(右大臣一派)による弟光源氏の臣下としての据え直しが、密かにそして厳正に行われていることが読み取れます。
その光源氏に連動して、源氏に従う随身に右近の将監が任命されました。実はこれも格下の役目であり、必ずしも名誉なものではありませんでした。どうやら右近の将監は、光源氏の分身として機能させられているようです。そのため源氏須磨退去の折も連座して官職を剥奪されています。そういった政治的なかけひきを背後に含みながら、斎院の御禊が表向き盛大に行われているのです。
この御禊という儀式は、正式には賀茂川で行われるみそぎですが、現在は賀茂神社内の御手洗川(池)で行われています。それが済んだ後、斎院一行は一条大路を通って紫野の斎院に入ります。その行列を見物しようと、一条大路には立錐の余地もないほど桟敷や物見車が立ち並びました。身分の低い人たちは立ち見です。
今回の行列のメインは新斎院その人ではなく、行列に供奉した光源氏の方でした。源氏の美しい姿が間近に見られるとあって、源氏とかかわりのある女性達は競って見物にやってきます。正妻の葵の上も見物にやってきました。葵の上一行は準備不足で、場所の確保もしていません。そこは左大臣家の地位と権力に物を言わせ、身分低そうな牛車を無理やり立ち退かせます。たまたまそれが六条御息所の網代車(あじろぐるま)だったのです。
要するに「車争い」は、正しくは「車の所争い」(場所取り)なのです。それは争いではなく、葵の上方による一方的な乱暴狼藉でした。それを正妻と愛人の愛憎の喩と見ることも可能でしょう。この時の屈辱的な敗北が、御息所の生霊(いきりょう)を誘発する契機となり、物語は葵の上の死へと展開することになるからです。
さて肝心の葵祭の当日、斎院一行は紫野の斎院から出発して賀茂神社へと向かいます。光源氏は紫の上と一緒にその見物に出かけました。その日も一条大路は見物人で賑わっていました。実は源氏も場所取りをしていなかったのですが、老女源典侍から絶好の場所を譲ってもらいます。その際、源典侍は源氏が誰か特別な女性(紫の上)と同車していることを咎める歌を詠みます。先の御禊の日の「車争い」が、葵の上と六条御息所の対立であったのに対して、祭の当日は源典侍と紫の上の対立という構図になります。葵祭において、密かにもう1つの車争いがあったのです。
そもそも葵は男女の恋愛を意味する「逢ふ日」の掛詞でした。葵巻のもう1つのクライマックスは、葵の上と六条御息所が共倒れした後に描かれる光源氏と紫の上の新枕です。それこそが本当の「逢ふ日」であり、紫の上がヒロインとして据え直される重要なできごとだったことになります。
このコラムをお読みのみなさん、是非今年の葵祭を見物して下さい。
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