「春眠暁を覚えず」をめぐって

2015/04/15

吉海 直人(日本語日本文学科 教授)

 

孟浩然の「春暁」という漢詩(五言絶句)、ご存じですよね。昔は必ずといっていいほど中学か高校の教科書に掲載されていたので、暗記している人も多いかと思います。その第一句が「春眠暁を覚えず」です。春は暖かくて心地よく眠れるので、なかなか起きられないというのは、現代にも通じますね。

ここで最初に注意すべきは、「暁を覚えず」の意味です。たいていの本は「暁」を「夜明け」と訳し、春になると日の出が早くなるのでなかなか起きられないと解釈しています。しかし古典の「暁」は午前3時過ぎのことですから、「暁」から夜明けまでには2時間以上の時間があります。ですから春でも外はまだ真っ暗です。要するに午前3時というのは日付が変更される時刻ですから、「暁」は翌日になるという意味なのです。

もっと大事なことがあります。中国の都の役人は午前3時前に起きて仕度を整え、午前3時きっかりに宮城入りしなければなりませんでした。「暁」は出勤時間なのです。ですから「暁を覚えず」は、決して寝過ごして遅刻したという意味にはなりません。大事な出勤時間を気にしなくていいというのは、作者が役人ではないからなのです。

実は盛唐時代の孟浩然は、科挙(中国の官吏登用試験)に合格できなかった人だったのです。自由人のようでありながら、その奥には役人になれなかった屈折した思いが含まれているのかもしれません。そう考えると、なんとなくこの漢詩のニュアンスが今までとは違ってきませんか。

では第二句の「処々啼鳥を聞く」はどうでしょう。一体、どんな鳥がさえずっているのか気になりませんか。これがもし「鶏」ならば、ご承知のように「鶏」は暁を告げる鳥ですから、やはり午前3時に鳴きます。ここは寝坊して聞いているのですから、明るくなる頃に鳴き始める雀などの小鳥でしょうか。

第三句の「夜来風雨の声」は、時間的に過去(昨夜)に遡っています。なお「夜来」の「来」は語調を整えるための助辞ですから、「来る」という意味はありません。夜の間ずっと雨風の音が聞こえていたというのです。第二句で鳥の鳴き声が聞こえるとあるのは、既に雨が上がっているからでしょう。

ここで考えてみて下さい。ちょっと変だとは思いませんか。だって熟睡していたのなら、そんな雨風の音など耳に入るはずはないですよね。それがずっと聞こえていたというのなら、昨夜は眠れなかったことになります。ひょっとしたら睡眠不足で、暁近くにようやく眠りについたのかもしれません。これはちょっと考えすぎでしょうか。

それに続く第四句は、「花落つること知る多少」です。質問ばかりで恐縮ですが、この「花」はどんな花でしょう。雨風によって散らされるのですから、日本人なら即座に「桜」と答えるかもしれませんね。でも舞台は中国ですから、「桜」はありえません。そこで次に「梅」という答えも出そうです。これなら中国にもあります。ただし「春暁」というのは、まだ肌寒い早春ではなく、ぽかぽかとした晩春を指すようなので、季節的には「桃」の方がふさわしいかもしれません。

末尾の「多少」は曲者です。日本の場合、「多少」といえば少ないニュアンスで用いられています。昔はこれを疑問と見て、どれくらい散ったのだろうかと訳していました。最近は多いことを前提として、たくさん散ったことだろうと推量風に訳しているようです。みなさんはどう教わりましたか。

もっとも、花がたくさん散ったかどうかは、外(庭)を見ればすぐわかるはずです。ところが作者はずっと床に入ったままでした。雨風の音も鳥の鳴き声も、みな聴覚に頼っていることに気づいてください。目を覚ましたまではいいのですが、床に入ったまま起き上がって外を見ることもしていません。それが春のもの憂さ(アンニュイ)なのでしょうか。「怠け者!早く起きなさい」とどなられかねませんね。

最後にこの漢詩の文学的な訳を二つ紹介しておきます。一つは土岐善麿の訳詩です。

春あけぼののうす眠り 枕にかよう鳥の声
風まじりなるよべの雨 花散りけんか庭もせに

「うす眠り」とか「枕にかよう」というのは見事な表現ですね。「庭もせに」というのは、「庭も狭しとばかりに」ですから、花がたくさん散ったと見ていることがわかります。
もう一つは井伏鱒二の訳詩です。

春の寝覚めのうつつで聞けば 鳥の鳴く音で目が覚めました
夜の嵐に雨まじり 散った木の花いかほどばかり

「いかほどばかり」というのは疑問ですね。いずれにしても漢詩の訳というのは、ここにあげたようにその訳自体が作品としてすばらしくなければ話になりません。

 

※所属・役職は掲載時のものです。