「同盟姉妹校」の連携をもう一度

2015/03/20

吉海 直人(日本語日本文学科 教授)

 

たまたま名古屋の古書店から「津保美第八開」(明治23年10月20日)という小冊子を入手しました。この小冊子については、創刊号というか第一開に新島八重が「「つぼみ」について」という一文を掲載していることから、記憶に残っていました。

冊子の発行所は、大阪の「女文会」となっています。早速、図書館で「タイトル」を検索してみたところ、国会図書館所蔵のものがマイクロフィルム版になっていることがわかりました。その書誌によれば、新島襄が亡くなった明治23年1月に第一開が発行されてから、第二十四開(明治25年4月)で終刊になっているようです。月刊でほぼ2年間続いたことになります。

この「つぼ美」に関しては、本学名誉教授の坂本清音先生が総合文化研究所紀要4号と15号に論文を掲載しておられることを知り、参照させていただきました。当初は梅花女学校が中心となって、そこに近畿圏のキリスト教女学校が参加し、新たに「女文会」という組織が結成されたとのことです。それによって、これまで梅花女学校が発行していた「梅花余香」が「つぼ美」と改名され、拡大して発行されたようです。

この「女文会」設立の目的としては、①姉妹校の修交、②文学の奨励、③女学の開進、と謳われています。内容は女学生たちによる純粋な文芸誌となっています。この時代の女学校生の文芸活動を知る資料としても貴重ですね。

あらためて「津保美第八開」の表紙をめくってみると、見返しに「同盟姉妹校」として、

京都 同志社女学校 大坂 梅花女学校 神戸 英和女学校 岡山 山陽英和女学校   
鳥取 英和女学校 伊予 松山女学校

と出ていました。さらに「会友」として、

肥後 熊本女学校

も加えられていました。設立当初4校だったものが、第八開で7校に拡大していることがわかります(最終的には大阪一致女学校(現在の大阪女学院大学)、神戸松蔭女学校、名古屋清流女学校が加盟して10校まで増加)。

末尾に会友として名のあがっている熊本女学校には見覚えがあります。かつて新島八重を追いかけていた時、新島襄が「美徳以為飾」と書いて熊本女学校(竹崎順子校長)に贈ったことが、八重の回想の中に出ていたからです。

姉妹校の山陽英和女学校にしても、明治42年5月6日に八重が「白虎隊につきて」という題で講演した女学校でした。これは襄の教え子である上代知新(かじろともよし)(上代淑の父)との関係のみならず、八重の養女初子と結婚した広津友信が一家で岡山に住んでいたからでしょう。また鳥取の英和女学校との親密な関係は、やはり本学名誉教授の近藤十郎先生が「同志社女子大学史料室講演会記録」に詳しく述べられています。

これらのキリスト教主義の女学校は、アメリカン・ボードの宣教師や新島襄との関わりが深く、必然的に教師の中に同志社英学校や女学校の卒業生たちが少なからず含まれていました。それもあっての「同盟姉妹校」なのではないでしょうか。

それにしても明治23年の時点で、キリスト教主義の7つの女学校が連携し、1つの文芸冊子を協力して刊行していたという事実には驚かされます。こういった過去の歴史があるのですから、それをもう一度復活させることはできないものでしょうか。現在、日本女子大学・フェリス女学院大学・金城学院大学と協定を結んでいますが、ここに掲載されているかつての「同盟姉妹校」とも何らかの交流が持てたら、と思わずにはいられません。

 

※所属・役職は掲載時のものです。