「春はあけぼの」を読み解く
吉海 直人(日本語日本文学科 教授)
みなさん、『枕草子』には伝統的な日本の四季折々の自然美や風物が鏤(ちりば)められていると思っていませんか。実はそれこそが誤解というか大きな間違いなのです。だってそうでしょう、春の風物としては「梅・鶯・桜・霞」などをあげるのが一般的ではないですか。『枕草子』にはそれが不在なのです。逆に清少納言が提起している「あけぼの」など、春を代表する景物ではありませんし、まして美意識にもあてはまりません。
それにもかかわらず、みなさんはそれを平安朝貴族の美意識として受けとっている恐れがあります。それが高校で学んだ成果だとしたら、それこそ学校教育の弊害ということになりかねません。
そこで考えていただきたいのは、仮に「あけぼの」が春の景物として当時認められていたとしたら、清少納言はごく当たり前のことを提示していることになります。それでは宮廷で評価・称讃されるはずはありません。となると『枕草子』は、決して当時の伝統的な美意識を集成したもの(美意識辞典)ではないということがわかるはずです。当時の美意識としては認められていなかったからこそ、周囲の人々の注目を浴びたのではないでしょうか。
あらためて初段の構成を見てみましょう。各段は「春はあけぼの・夏は夜・秋は夕暮れ・冬はつとめて」とあって、一日の中で推移する特定の時間帯が切り取られ、それが四季の運行と組み合わせられていることに気付きます。これも奇妙な組み合わせですよね。そもそも「あけぼの」という言葉自体、上代(『万葉集』など)に用例がありません。平安時代になっても、初期の『竹取物語』・『伊勢物語』・『古今集』などには見られず、『蜻蛉(かげろう)日記』に至ってようやく1例だけ登場しています。肝心の『枕草子』にしても、印象としてはたくさん使われていそうに思われますが、実は冒頭の1例しかないのです。ここから当時としては非常にマイナーな言葉だったことがわかります。
類義語の「あさぼらけ」なら、既に『古今集』・『後撰集』といった勅撰集の和歌に用例が認められます。それに対して「あけぼの」は歌語としての古い用例がなく、初めて勅撰集に登場するのは、『枕草子』よりずっと後の『後拾遺集』でした。そしてそれが流行するのは、もっと下った『新古今集』まで待たなければなりません。
その「あけぼの」と対になっているのが「夕暮れ」です。やはりみなさんはこの「秋の夕暮れ」も、平安朝の美意識として確立していたと誤解していませんか。しかし「秋の夕暮れ」は『古今集』には詠まれていません。「あけぼの」と同様、勅撰集の初出は『後拾遺集』でした。
『新古今集』に至って用例数が18例にも激増し、しかも「三夕(せき)の歌」が浮上することで、いかにも伝統的な美意識だったように幻想(誤解)しているだけなのです。秋の伝統的な景物としては紅葉・菊であり、そして月でした。
この「あけぼの」という特殊な言葉にもっともすばやく反応したのが、『源氏物語』でした。用例数はなんと14例も認められます。しかもそのうちの3例は「春のあけぼの」ですから、紫式部が『枕草子』を意識していることは間違いないようです。
中でも光源氏の長男である夕霧が、野分(暴風)のどさくさに紛れて義理の母にあたる紫の上を垣間見る場面は圧巻です。夕霧が紫の上の美しさを「春の曙の霞の間より、おもしろき樺(かば)桜の咲き乱れたるを見る心地す」(野分巻)と述べているところです。ただしこの文章はきわめて比喩的であり、具体的な紫の上の美しさがほとんど伝わってこない恨みがあります。あえて「樺桜」という特殊な桜を持ち出したことの狙いもピンと来ません。
いずれにしても、清少納言が当時の伝統的な美意識とは異なる捉(とら)え方を提示したからこそ、周囲の人々の驚きに満ちた称讃を勝ち得たに違いありません。それを誰よりも高く評価し、自らの執筆に応用したのが紫式部だと思います。むしろ『源氏物語』の流行によって、「あけぼの」が次第に美意識に昇華していったといえるかもしれません。
さあみなさん、「春はあけぼの」章段をもう一度読み直してみませんか。もはや従来の見方では済まされません。素直に納得するのではなく、積極的に疑問を抱いて下さい。そこから古典を読む面白さが始まるはずです。
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