まだあった正満の随筆─「緋文字」

2015/01/20

吉海 直人(日本語日本文学科 教授)

 

前回、「情熱のことば」を発見したことで、これでもう完璧と思ったのですが、ひょっとするとまだ知られていない資料が残っているかもしれない、という不安が頭をよぎりました。そこで安全を期すために、正満の著書をネットの「日本の古本屋さん」で検索したところ、何冊かの本がヒットしました。専門書は除いて、ざっと見ていったところ、『魚籠』という随筆集に目がとまりました。

『不定芽』の時も、まさかそんな本にという経験があったので、取りあえず中身も見ずに注文してみました。届いてすぐに目次を開いてみると、そこに「新島の小父さん」も「めぐりあひ」も「情熱のことば」もありませんでした。代りに「緋文字」という奇妙なタイトルがあったので、真っ先にその頁をめくってみました。すると案の定、そこには「新島の小父さん」の類話が掲載されていたのです。

同じ話をどうして再録しているのだろうという気持ちと、前の話とどう違うのだろうという気持ちが交錯したので、早速読んでみました。すると大きな違いがすぐに見つかりました。「新島の小父さん」にあったホランド博士との奇妙なめぐりあいの逸話が、「緋文字」ではばっさり切り捨てられていたのです。『魚籠』の刊記を見ると、発行年は昭和16年とありました。ちょうど太平洋戦争が勃発した年なので、そういう配慮がなされたのでしょう。

その代わり、「新島の小父さん」になかった赤インキの記事が末尾に付加されていました。それがタイトルの「緋文字」の由来にもなっているようです。同様のことは後の「めぐりあひ」(教科書所収)にも、

そこに赤インキが置いてあるでせう。をぢさんは晩年眼が悪くなつてね。手紙でも何でも、赤インキで書かなくては見えないやうにおなりになつたのですよ。

云々と継承されています。
「緋文字」では、さらに襄の墓参りの後に引き続いて、

新島の小父さんがあのデスクによつて、あの赤インキで認めたのであらう明治廿年十二月六日附で、札幌農学校に教鞭をとりながら札幌独立教会を牧してゐた私の父に送られた緋文字の長書が我家に秘められている。

以下、その手紙の全文が紹介されています。だからこそ「緋文字」というタイトルになっているのでしょう。襄の手紙がこんなところで紹介されていたなんて、気がつきませんよね。また襄が晩年眼を悪くしたため、赤インクで手紙を書いていたことも、新島襄研究ではほとんど話題になっていなかった気がします。

試みに『新島襄全集3、4』で調べたところ、ありました。明治20年10月8日中村栄助宛(毛筆赤インク)、明治21年1月22日同志社五年生宛(毛筆赤インク)、11月22日徳富猪一郎宛(毛筆赤インク)、11月下旬松平正直宛(毛筆赤インク)、12月1日諸教会牧師・代議員宛(毛筆赤インク)、12月2日大島正健宛(毛筆赤インク)、12月5日徳富猪一郎宛(赤インク)などがそれに該当するようです(正健宛の日付は違っています)。ただしそれ以降はまた普通の墨に戻っていますから、明治21年前後だけ眼が悪かったというのも何だか奇妙ですよね。

その時はっと思い当たりました。ひょっとすると襄の心臓の病気が悪化するのを恐れた八重が、手紙を書かせないように見張っていたという話です。そのため襄は八重の目を盗んで手紙を書かざるをえませんでした。ですから普通に墨で書いていられなかったから、やむを得ず赤インキで手紙を書いた、という私の珍解釈はいかがでしょうか。

 

※所属・役職は掲載時のものです。