「新島襄海外渡航乗船之処」石碑の前で ~学生部主催 『会津若松・安中・函館ツアー』~

2014/10/06

吉海 直人(日本語日本文学科 教授)

 

今年は新島襄が函館から海外渡航してちょうど150周年ということで、それを記念して6月14日に函館で盛大な式典(碑前祭)が催されています。せっかくの機会なので、同志社女子大学でも学生部の会津若松・安中ツアーに、急遽函館が加えられました。

この際、現地で礼拝を行なおうということになり、急遽私が奨励を担当することになりました。それからが大変です。ツアーの楽しみは吹っ飛んでしまいました。さてどんな話にしようか、素案作りに四苦八苦。結局、海外渡航記念の石碑の前で行なうということで、そのあたりのことをうまくまとめてみた次第です。

まずは快風丸に乗って函館に至る経緯について。安中藩へは、函館にある武田斐(あや)三郎の塾へ入り、外国語の勉強をするためと届けられています。しかし襄は既に日本から出国する大望を抱いていたようです。そのことは襄の作った漢詩の一節に「蓬桑之志」とあることから察せられます。これは「桑弧蓬矢」を踏まえたものです。「蓬矢」はよもぎの矢、「桑弧」はくわの弓のことですが、中国の風習ではこれを幼い男児に与えるそうです。弓で射た矢が遠くへ飛ぶように、男子たるもの広く世界へ出て見聞を広めなければならないという意味です。

また襄は「もののふの思ひ立田の山紅葉錦着ずしてなど帰るべき」という和歌を詠じています。これは「故郷へ錦を飾る」ということわざを踏まえたものですが、これも中国の「衣錦還郷」が下敷きになっています。そして渡航記念の石碑にも、「男児志を決して千里を馳(は)す」云々という漢詩が刻まれています。これらを考え合わせると、その時の襄は外国へ行って西洋の進んだ文明を習得し、それを持ち帰って日本で立身出世しようと志していたように思えます。

さあこれで大丈夫と思って、原稿をバッグに入れてツアーに出かけました。ところが函館に着いてから急に不安に陥ったのです。確かに襄の海外渡航は大事だし、同志社でもそれを記念して毎年碑前祭を行なっています。でも、果たしてそのことだけを強調していいのだろうか、何かもっと大事なことを忘れてはいないだろうか、わけのわからないもやもやで私の胸は一杯になりました。そしてはっと気づいたのです。襄の志の中にキリスト教の心がないことに。

藁にもすがる思いの私は、奨励のために用意されていた聖書の一節に目をとめました。それは新約聖書ヨハネによる福音書3章16節の「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」でした。これは宗教部長・中村信博先生が、わざわざこの奨励のために選んで下さったものです。私は選ばれた聖書の箇所などまったく気にせず、勝手に奨励の原稿を考えていたのです。しかし最後になって、その聖書の言葉に救われました。

そうだ、同志社にとって一番大事なことは、襄の海外渡航そのものではなく、襄が船上で聖書のこの一節に出会ったことなのだ。もし襄が立身出世の志を貫徹していたら、おそらく同志社の設立などありえなかっただろう。むしろ聖書に触れ、キリスト教の「神の愛」を得心したことこそ、同志社にとってもっとも大切ではないだろうか、と思いました。この箇所を選ばれた中村先生は、そこまで見通されていたのでしょう。もっと早く気づかなければならなかったのです。私は大急ぎで原稿の手直しに着手しました。そして礼拝を迎えたのです。

今、みなさんがいるのは函館埠頭です。元治元年(1864年)6月14日、襄はベルリン号に乗って日本から出国しました。今年はちょうど襄の海外渡航から150年目にあたるので、私たちもここを訪れたわけです。でもキリスト教主義の同志社が本当に祝わなければならないのは、襄が「千里の志」を抱いて出発したその時ではなく、襄が香港で漢訳聖書を購(あがな)い、そして「神の愛」を知った時ではないでしょうか。それによって渡航の目的も、襄のその後の人生も大きく変わったからです。

ここは襄が海外渡航した記念の場所ですが、目を閉じてここからさらに船上の襄に思いを馳せて下さい。そして襄の心を転換させた聖書との出会い、そこから同志社が誕生すること、そしてここに集っているみなさん一人ひとりが、150年前の襄の心につながっていることを、この石碑の前でしっかりと心に刻んで下さい。

※所属・役職は掲載時のものです。