八重の徳富蘇峰宛書簡
吉海 直人(日本語日本文学科 教授)
徳富蘇峰に宛てた八重の書簡は、神奈川の徳富蘇峰記念館だけでなく同志社社史資料センターにも所蔵されています。ここではその中から1916年(大正5年)2月9日の書簡に注目してみましょう。そこには次のようなことが記されています。
拝啓 当年は殊の外に寒気もゆるやかに御座候処、御皆々様方御機嫌よく珍重に奉存候。扨旧冬は御送金難有、早速御礼の書状差上可申はつの所、十二月廿二日より岡山に参り居、去月廿五日に帰宅致、帰り早々風邪にかかりよふよふ一昨日床払致、誠に延引御免被下度候。又此度御発行に相成候御書私にも御送り被下、是又難有御礼申上候。広津方に居候間度々拝見致、帰宅致候得ば存じよらず。私にまで御送り置被下一入(ひとしお)難有御礼厚く奉申上候。延引ながら御礼まで 草々 不一
二月九日 八重子
まず「旧冬は御送金難有」ですが、蘇峰は襄が亡くなった直後に八重と和解し、以後八重が亡くなるまでずっと経済的に援助してきました。この文面からすると、昨年(大正4年)冬にもなにがしかのお金が蘇峰から送られていたことがわかります。大正4年はちょうど八重の古稀(70歳)の年でした。しかも「冬」とありますから、おそらく蘇峰は八重の誕生日(旧暦11月3日、新暦12月1日)にあわせて、古稀のお祝いとしてお祝いのお金を贈ったのではないでしょうか。蘇峰の律儀さが伝わる書簡です。
次に「十二月廿二日より岡山に参り居、去月(正月)廿五日に帰宅致」とある点はどうでしょうか。従来だったら、八重は何しに岡山へ行ったのだろうと考えるところですが、既に広津家の存在が明らかになっているので、ここはためらうことなく広津家に行っていたと判断することができます。おそらく広津家でも八重の古稀を家族で祝ったに違いありません。この時、孫の襄次は13歳、正は9歳、旭は7歳、その他女の子の孫も3人いますから、ずいぶんにぎやかな正月だったと想像されます。ですから大正4年に限らず、八重はしばしば岡山に足を運んだに違いありません。なお「此度御発行に相成候御書」とは、時期的には大正4年11月に刊行した『蘇峰文選』が一番ふさわしいかと思います。
さて八重はこの時、蘇峰のみならず同時に蘇峰の妻静子宛の書簡もしたためています。どうやら八重は、蘇峰の家族とも親交があったようです。その中で静子の2男萬熊のことについて以下のように書いています。
私は非常に感じ申候故につたなき筆にまかせ申上候。其事は去月九日朝萬熊様停車場より直に広津方に御付に相成夕方まで二階にて広津(友信)と御咄に相成御帰り被遊子供等も皆休候後広津が私に申候には本日は萬熊様非常に御心配にて直に東京に帰るべくやと仰色々御なぐさめ申上候御返し申上げ。其事は車中にて新聞に何か御宅之事出居候を御覧被遊候て夫を御心配被遊候由。其後二三日立て御出之折には御心も御しづかによく御勉学被遊候様承り大きに安心致申候。中々御感情につよき御方にいらせられ候。実に持べき物は御子様に御座候。誠に奥様は御仕合に御座候。私が子供之折に祖母より承りし御咄に昔在国主がめいめい之宝を見せよと申せし時に種々成珍敷品々を持参致主人に見せ申候。其内之一人は家宝は何も無五人之男子在右之五人之兄弟に上下と大小を新に出来同道致私之家宝は是に候と申候得ば主人は非常によろこび一番之ほふびをいただき申候而夫より子供を子宝と申候と承り申候を実に奥様は沢山之御子宝御持にて御仕合に御座候。
静子宛の書簡は、蘇峰宛の4倍近い長さになっているのですが、それは萬熊をめぐって子宝についてのたとえ話が語られているからです。普通だったら十八番の『日新館童子訓』から引用するところでしょうが、ここは「祖母」から聞いた話になっています(かつて祖母も八重と同居していた?)。
萬熊の心配事は徳富家に関する新聞の三面記事だったようですが、具体的な内容は記されていません(蘇峰は昨年11月に勲三等を受章)。明治25年生れの萬熊は、当時23歳になっています。「勉学」云々とありますし、第六高等学校の教師である広津友信に相談しているところからすると、萬熊は当時岡山近辺に居住していたのかもしれません。いずれにしても蘇峰が子沢山であることは確かで、静子との間に長男太多雄をはじめとして男の子4人・女の子5人を儲けています。子のない八重にとってはうらやましかったのかもしれませんね。
※所属・役職は掲載時のものです。