『演説家百詠選』に載った覚馬

2014/05/16

吉海 直人(日本語日本文学科 教授)

 

みなさんお馴染みの百人一首には、膨大な数の「異種百人一首」という類書(パロディ)があります。これらはすべて百人一首の人気が生み出した副産物です。当初は純粋に秀歌撰として編まれていたのですが、どうしても百人一首以上のものができないということで、途中からベスト百物(ランキング本)に変質しています。それもまた百人一首の知名度があってこそ可能でした。

そういった「異種百人一首」に目を通していたところ、『愛国民権演説家百詠選上』(明治15年12月)という本の終わりの方に、山本覚馬が出ていることに気が付きました。覚馬が演説家としてどの程度名を知られていたのかわかりませんが、まずはそこに書かれていることに目を向けてみましょう。

古昔(むかし)武田信玄の臣山本勘助は独眼にして能く軍事の参謀となり毎戦利を得ざりしことなかりしは実(げ)に天賦の人才と謂ふ可(べ)し。今又此山本覚馬なる人は旧奥州会津の城主松平肥後守の臣にして両眼共に失明せし曚人なれども藩侯に従ひ京都に守護職たりし時軍謀密策を廻らし常に君侯を輔佐し時に王政維新の春に際し暫く捕はれ幽閉せしも松山一郎藤田賢之助両人の周旋にて特典の官許容を得て後西京に在りて士民に文明の理を説き商工の事業を勧奨して専ら開化の道を開き勉めて頑固なる商事を説破せし通商富国の益を主張せし人なり。

はじめに武田信玄の軍師として知られている山本勘助が紹介され、それに続いて山本覚馬の事績が語られています。姓が山本で共通していますから、これは両者の血縁関係が想定されているのでしょうか。それとも単なる文飾なのでしょうか。文飾とすれば勘助は独眼、覚馬は両目とも見えないという対比が行われていることになります。さらに二人とも参謀として君主を補佐したという共通点がありました。

こういった「異種百人一首」物には、作者の肖像と漢詩や和歌が掲載されるのが常ですが、覚馬の場合はそれがなく、「眼曚(くろ)うして能く富強之事を説く」と記されているだけです。もしここに覚馬の和歌あるいは漢詩が掲載されていれば、それ自体貴重な資料となったに違いありません。それが載せられていないということは、おそらく覚馬が漢詩や和歌を詠んでいなかったからではないでしょうか(妹の八重は和歌を詠じています)。

さて本書に書かれている内容ですが、覚馬が会津藩士だったこと、失明したこと、京都守護職となった松平容保を補佐したこと、戊辰戦争の折に幽閉されたこと、維新後は西京(京都)の復興・繁栄に尽力したことなどが記されています。それはほぼ正しい記述だと思われます。

ただし覚馬が「管見」を書いたこと、それが薩摩藩に認められて京都府顧問になったこと、後に府議会議長・商工会議所会頭を歴任したことなど、具体的な事績は一切掲載されていません。しかも肝心の新島襄と協力して同志社を設立したこと、キリスト教に理解を示したことも書かれていません。京都の近代化に尽力した人物であることさえわかれば、それ以外のことは不要なのでしょうか。

それでも疑問が残ります。肝心の演説家としての活躍が一切書かれていないからです。これを読んでも、覚馬が演説家としてどのように優れていたかはわかりません。そうなると何故本書に覚馬が取り上げられているのか、それさえも不明瞭ということになります。

唯一固有名詞として、松山一郎・藤田賢之助という二人の名前があげられていますが、この二人がどんな人物なのかもわかりません。どなたかご存知でしたら是非教えてください。

 

※所属・役職は掲載時のものです。