広津襄次に注目して

2014/04/25

吉海 直人(日本語日本文学科 教授)

 

八重の義理の孫に広津襄次がいます。広津友信・初子夫妻の長男です。八重の養女だった初子は、明治34年5月に洛陽教会で友信と結婚式を挙げていますが、その1ヶ月前の4月2日に新島家から除籍になっているので、おそらくその日に入籍して広津初子になっているのでしょう。

夫である友信は新島襄の愛弟子で、本来なら襄の後継者になるはずの人でした。結婚した時は同志社校長心得という身分ですから、順調な滑り出しだったかもしれません。ところが同志社内のトラブルに巻き込まれ(詳細は未詳)、その年の8月にあっけなく同志社を辞任し、9月には岡山の第六高等学校に英語の教員として赴任しています。当然妻の初子も一緒です。八重は初子を自分の近くに置いておきたかったのでしょうが、こればかりはどうにもなりません。

実はその時、初子は既に身ごもっていました。そして翌年春、元気な男の子を出産します。それが襄次です。八重にとっては初孫にあたります。これまで初子がどこでお産したのかわからなかったのですが、幸い新刊『新島八重関連書簡集』(社史資料センター)に所収されている英文書簡の中にその答えがありました。それは33番のレンウィック夫人の八重宛書簡(1905年1月10日)です。

年号は合致しませんが、ちょうどその3年前(明治35年)の正月、来日した夫人がデントンに伴われて八重を訪問したところ、生れたばかりの赤ん坊が新島家にいたことが記されています。

Then,our Sunday call at your own home,in such an unseremonious manner,and the surprise that awaited us all  even our dear Miss Denton, where we,the first visiters,grouped ourselves round a dainty littlr being whose eyes opened to its first earthly day!                    

 (43頁)

 

    

解説を担当されている坂本清音氏は、「私たちが赤ちゃん誕生後初めての訪問者だった」(82頁)と訳されています。その赤ん坊こそ初子の長男ではないでしょうか。これによって初子が京都の実家で出産していたことがわかります。

八重はこのかわいい孫を襄次と名づけました。もちろん襄の後継者になることを望んでの命名です。本井康博氏は「同志社教会員歴史名簿」によって、襄次がその年の3月3日に同志社教会で幼児洗礼を受けたと述べています(『八重さん、お乗りになりますか』思文閣出版295頁)。

これで何も問題はないと思われたのですが、歴史研究家の伊藤哲也氏は「八重と襄と尚之助(一)」(歴史春秋77)の中で、広津家の戸籍を写した手紙を紹介され、襄次の誕生日を明治35年4月15日と断定しています。伊藤氏は宝塚の伊藤家を訪問され、広津旭夫人から資料を提供されているのですから、これを否定するわけにはいきません。そうなると4月に生れた襄次が、3月に洗礼を受けることなどありえないことになります。

資料の現物を見ていないのでなんとも言えませんが、レンウィック夫人の書簡も看過できませんから、「4月」が「正月」の誤りであったらいいなと願っています。ただし昨年の4月に結婚したとして、翌正月の出産で計算が合うのかどうか自信はありません(同居はもっと前か)。いずれにせよ襄次に関しては、誕生日ですらこのように確定していないのです。

その襄次のエピソードとして、八重は次のように語っています。

五つ位の幼稚園に通ってる時分から「おばあさん僕は早く小学校に入って、中学校から同志社に入っておぢいちゃんに敗けない様に勉強して、それからおぢいちゃんの行ってらしたアメリカの大学校に行って偉らくなります。その時分にはおばあちゃんももっとほんとのおばあさんになるでせうから、僕がアメリカかイギリスに行って立派なお家を作って上げて、毎日お馬車に乗せてきれいな公園や野原に連れていって上げませう」と幼子の心にもけなげに云って呉れました。   

(『追悼集Ⅲ』278頁)

 

これが八重と襄次の交流を知る唯一の資料でもあります。ついでながら二男の正は、明治39年1月1日誕生ということになっています。また三男の旭は明治41年生れのようです。その他、清・喜久重・操と合わせて六人(男3人、女3人)の子供がいたようです(『八重さん、お乗りになりますか』296頁参照)。そうなると初子は、出産毎に京都へ帰っていたとも考えられます。あるいは八重が広津家に出向いていた可能性もあります。いずれにしてもこんなにたくさんの孫がいるのですから、八重が岡山まで会いに行かないはずはありません。今のところ資料的には明治42年と大正4年しかわかっていませんが、正月は毎年のように広津家で過ごしていたのかもしれません。

 

※所属・役職は掲載時のものです。