会津藩の子弟教育

2014/04/11

吉海 直人(日本語日本文学科 教授)

 

会津藩では6歳になると、「ならぬことはならぬものです」という会津藩独特の「什(じゅう)の掟(おきて)」(組織の決まり)を教わります。「什の掟」とは、

  • 一、年長者の言ふことに背いてはなりませぬ
  • 二、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ
  • 三、嘘言(うそ)を言ふことはなりませぬ
  • 四、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
  • 五、弱い者をいぢめてはなりませぬ
  • 六、戸外で物を食べてはなりませぬ
  • 七、戸外で婦人(おんな)と言葉を交へてはなりませぬ
  • ならぬことはならぬものです

というものです。これを集団生活の掟として叩き込まれたのです。これをよく見るとあることに気づきます。7条を見てください。「婦人」とありますね。女の子が戸外で婦人と話をしていけないはずはありません。ですからこれは男子用に作られたものだということがわかります。

昨年の大河ドラマ「八重の桜」では、主演の綾瀬はるかがしばしば「ならぬことはならぬものです」と口にしていました。どうやらNHKはこれをキーワードというかキャッチフレーズに仕立てたのでしょう。ただし肝心の八重は、「什の掟」について一切言及していません。八重が「ならぬことはならぬものです」と口にした資料は見当たらないのです。それは八重が女性だから当然でした。つまり八重は「什の掟」に縛られていたわけではないのです。

むしろ八重は父(あるいは母)から会津藩士の心得が書かれた『日新館童子訓』の手ほどきを受けています。これも男子用(藩士用)というか日新館の教科書ですから、女性である八重は日新館で学ぶことはできませんでした。しかし当時の藩士の家では、これを家庭でも活用していたようです。そのため女性である八重も、7歳の時には序文を諳(そら)んじることができました。そのことは八重の晩年の回想の中で、

童子訓は子供を寝させる時、子守歌様に誦しつつ寝させたものであります。夫れ故子供でも君の恩と云ふ事は幼ひ時から頭に浸み込み、決して忘れないのでございます。それで私も父から童子訓を習ひ、七歳の時に暗誦出来ました時は、非常に学者になった様な心地が致して居りました。        

 (『愛と闘いの生涯』205頁)

 

と述懐しています。その序文の一部を紹介すると、

夫(それ)人は三の大恩ありて生をとぐる也。父母これを生じ、君これを養ひ、師これを教ゆ。父母にあらざれば生ぜず、君にあらざれば長ぜず、師にあらざれば知ず。父母の恩はきはまりなきこと天地とひとしく、父母なくんば何ぞ我あらん。胎育のはじめより数月の間千辛万苦をかけ、出生の後は母はぬれたるふすまにふし、子をばかはける裀(しとね)にふさしめ、子ねむれば母の身もうごかず、夏はすずしく冬はあたたかに、父は孕子(ようじ)の安穏をいのり、衣服医薬の心くばりいたらぬくまなく、食する頃より箸のとりやうをはじめ行儀作法言(ものいい)を教へ、それぞれの師を選び道を学び芸をならはし、才徳人にすぐれん事を願ひ、年頃にもなれば妻(め)をめとらしめ、家をたもち先祖を恥しめざるやう辛苦愛幾ばくぞや。

云々です。ここでは親と先生と藩主の3つのありがたさが説かれています。こういった儒教的な教えが、会津藩士の武士道精神の核となっていたのです。これがプラスに働く場合もあれば、マイナスに働く場合もあります。印象的な鶴ヶ城籠城についても、評価が分かれるところです。

この『日新館童子訓』の教えが、男勝りの八重の生涯をも方向付けたようです。そのことは昭和3年10月5日に日本女子大学で『日新館童子訓』の序文を諳んじつつ、

封建時代の而も会津の山奥に生れ、学校と云ふものもなく、本当に何にも知らないのでございます。何にも分らないのではございますが、私は唯「精神」と云ふことだけは常に持って居ります。私の持って居ります精神は、私の旧藩の祖先が代代の子孫の為めに「童子訓」と云ふものを遺しまして、私もそれを母から習ひ父から教ったのが抑々の基となって居ります。          

(日本女子大学家庭週報956)

 

と述べています。小学校も出ていない八重にとっては、『日新館童子訓』こそが精神的支柱だったのです。それにしても「三つ子の魂」というか、82歳の八重の記憶力はたいしたものですね。

 

※所属・役職は掲載時のものです。