八重の代表歌「明日の夜は」をめぐって

2014/04/07

吉海 直人(日本語日本文学科 教授)

 

「明日の夜は」歌は八重の代表歌として知られています。この歌の作者が八重であることは、本人の談や歌のかかれた署名入り書幅の存在によって知られていますが、よく見るとそれらはすべて八重の晩年のものであり、この歌が詠まれた頃の資料は皆無といってよいことがわかります。

そのためか本文異同が生じているのですが、参考までに綱淵謙錠(つなぶちけんじょう)氏の小説『戊辰落日(下)』(文春文庫・昭和59年7月)に掲載されている三種の資料をあげてみましょう。

a あすよりはいづこの誰か詠むらん馴し大城(おおき)にのこす月影

(北原雅長『七年史』明治37年8月)

b 明日よりは何処の人か眺むらんなれし大城にのこる月影

(平石辨蔵『會津戊辰戦争』大正6年5月)

c 明日の夜はいつこの誰かなかむらんなれし大城にのこす月影

(『會津戊辰史』昭和8年8月)

おそらく綱淵氏は、小説を書くための資料収集の段階で、この歌に本文異同があることに気付かれたのでしょう。さらに三種以外にも、「〈大城〉を〈御城〉とした本もある」と述べておられます。それは、

d 明日よりは何處の誰か眺むらんなれし御城にのこす月影

(平石辨蔵『會津戊辰戦争』昭和3年増補版)

のことでしょう。こういった本文異同をまとめると、初句「明日よりは」「明日の夜は」、2句「いづく」「いづこ」「何国」・「誰」「人」、4句「御城」「みそら」「大城」「おう樹」、5句「残す」「残る」の対立本文があげられます。

ここで留意したいのは、上にあげた資料の中で一番古いものが明治37年だということです。資料的にもっとも早いのは、東海散士の『佳人之奇遇巻二』(明治18年)に収録されている、

又一婦あり。月明に乗じ笄(こうがい)を以て国歌を城中の白壁に刻して曰く

明日よりはいづくの人かながむらん なれし大城にのこる月影

と髪を薙(きっ)て死者の冥福を祈れり。

です(本文はbと一致)。ただし、ここでは歌の作者が明記されておらず、「一婦」(図版では「烈婦」)の歌として紹介されています。一番古い資料に作者名がないことを確認しておきましょう。

次に古いのは、「女学雑誌」391号(明治27年8月)所収の「會津城の婦女子(完結)」と思われます。そこには、

e あすの夜は何処のたれか眺むらんなれしおう樹に残る月かげ(川崎正之介)

と記されています。歌の後に「川崎正之介」とあることが注目されます。普通に考えれば、これは歌の作者名でしょう。「川崎正之介」とは、八重の夫であった川崎尚之助のことと思われます。すると「女学雑誌」では、歌の作者を八重(女性)ではなく、夫(男性)と見ているのでしょうか。もしそうなら看過できない重要な指摘ですが、あるいは「川崎尚之助の妻」の意味(妻省略)なのかもしれません。

以上のように、古い資料は二つとも歌の作者を八重としていませんでした。「婦人世界」4巻13号(明治42年11月)に至って、「男装して會津城に入りたる當時の苦心」という八重の懐古談が掲載されていますが、そこで八重自ら、

開城になったのが九月二十三日、その夜、三の丸を出ます時に、
あすの夜はいづくの誰かながむらむなれしみそらにのこす月かげ
といふ腰折れを一首よみました。

と自詠であることを語っています。ここは「みそら」となっていますが、見出しに「誰か眺めむ古城の秋月」とあり、また写真に出ている歌は「御城」となっているので、ここは「みしろ」の方が相応しいはずです。

肝心の八重が前述の二つの資料を知っていたのかどうかわかりませんが、ここで初めて歌の作者が八重自身によって表明されました。これ以後、ほぼ全ての資料は歌の作者を八重としています。徳冨蘆花の『黒い眼と茶色の目』(新橋堂・大正3年12月)でも、

脇差しをさしたり、薙刀を提げたり、女人隊の活躍した会津落城に「明日よりはいづくの誰か眺むらん馴れし御城にのこる月影」と云ふ歌を城壁に題して烈婦の名をとった妹のお多恵さんを先生に妻あはせ、

(44頁)

とあるように、『佳人之奇遇巻二』を引用しつつも八重(多恵)の歌と明記しています。

ただし、八重自身はこの歌を城の白壁に笄(こうがい)で刻したとは語っていません。ですから『佳人之奇遇』には芝居がかった誇張が含まれているようです。いずれにしてもこういった本文異同の背景には、この歌が人口に膾炙されてきた(八重が口を閉ざしていた)長い歴史が存するのではないでしょうか。

 


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