茶室「寂中菴」の普請

2014/03/03

吉海 直人(日本語日本文学科 教授)

 

新島旧邸の中には八重の造作した茶室があります。そこには「寂中菴」と書かれた裏千家13代宗匠円能斎直筆の扁額が掛けられています。円能斎が揮毫したのは大正元年8月1日なので、茶室はそれ以前に完成していたのでしょうが、その詳細は不明でした。

唯一、「武間冨貴同窓会名誉会長に聞く新島八重のことなど」の中で武間冨貴が、

新島邸の座敷を茶室に改装されたのがいつだったかは、はっきり存じませんが、私がお稽古に行きかけたのが明治四十年頃でしたから、その時にはすでに、新島先生のご書斎の南側の小さいお部屋を改造して、お席として使っていらっしゃいましたから、お茶席に入るには必ず、先生のご書斎を通り抜けなくてはならなかったのです。

(「同志社時報」81・1986年11月)

と回顧しているのが参考になります。これに依れば、「寂中菴」という扁額が揮毫される数年前に、既に茶室ができていたことになります(「座敷」は「洋室」の記憶違い?)。

ところが最近、徳富蘇峰記念館に所蔵されている蘇峰宛て八重書簡を調べていたところ、明治44年10月11日付の書簡に気になる記述を見つけました。内容は蘇峰の父一敬の90の賀の記念品を贈ってもらったことに対する返礼です(文政5年(1822年)生まれの一敬は、その年の9月24日(新暦では11月7日)に数えで90歳)。問題はその後の追伸にあります。

尚々皆々様に山々宜敷(よろしく)仰上下され度(たく)願上奉候。尚御かげ様にてふしんに昨今着手致居、是又厚く御礼申上候 以上

後半に「ふしん」とありますが、これを「普請」と見れば、ちょうどこの時期に茶室の改築に取りかかったと見ることができます。しかも蘇峰に対して「御かげ様」「厚く御礼申上」とあるのは、その普請の費用を蘇峰から出してもらっていると考えられます。

これに関連すると思われる資料も見つかりました。早川喜代次著『徳富蘇峰』に、

蘇峰翁より書留便がつくと、夫人は鋏で封を切りながら、感慨深げな面持ちで、「徳富さんは昔いくらもお世話をしませんのに、永い間私の子のように貴族院の歳費を私の生活費として送って呉れます。学者のお金ですから私には勿体ないです」と涙ながらに喜びの言葉を山岡夫妻に漏した。そして翁への礼状はいつも自分でていねいに書いていた。                            

 (478頁)

 

とある箇所です(「山岡夫妻」は新島会館建設の際に新島旧邸に寄宿)。これを全面的に信じることはためらわれますが、「貴族院の歳費」に注目してみました。というのも、蘇峰が貴族院議員になったのは明治44年8月24日だからです。それ以降に「貴族院の歳費」が八重に送られたとすれば、書簡の日付と時間的に合致することになります。

加えて明治43年7月4日、八重は「宗竹」という茶名並びに名誉引次の木札を授与されています。そうなると茶室の普請は、茶名を授与された後ということになります。もともと「寂中菴」は独立した茶室ではなく、12畳の洋間の中に4畳半の茶室をはめこんだものです。完成した茶室でどのような茶会が行われたのか、それを知る資料は見当たりません。

時期は少し下りますが、「今日庵(茶道)月報」113号に参考になる記事がありました。大正7年1月20日のこと、「寂中菴」で開かれた茶会に招かれた藤田宗州のレポートが掲載されています。

京洛寺町丸太町上る新島宗竹氏は毎月一二三の土曜日午前中は粗釜を掛け遊び居る故に来喫あれと再三の御伝言を辱(かたじけな)ふすれど、其機を不得。本月二十日は来土曜日を取越すとの御招に甘へ参庵す。

これによると、八重は毎月第1、2、3土曜(月3回)の午前中に自邸で茶会を開いていたことがわかります。この頃の八重にとって、自邸での茶会が何よりの楽しみだったのでしょう。時代はさらに下りますが、八重は満80歳の誕生日にも、

丁度明日で満八十歳になります。二十人位のお茶のお友達をお招きして閑かなお茶の席に神様にすべての事感謝しつつ、誕生日を味い度(た)いと思つてます。

 (『追悼集Ⅲ』279頁)

と述べています。実に穏やかな晩年ですね。

 

※所属・役職は掲載時のものです。