「吉野山」歌をめぐって

2014/02/26

吉海 直人(日本語日本文学科 教授)

 

多くの新島襄のエピソードの中で、「自責の杖」事件ほど感動的に伝えられている話はありません。大河ドラマ「八重の桜」でも、オダギリジョー扮する新島襄が、生徒達を処罰するかわりに、校長自らが責任をとると言って、枝が折れるまで自分の左手を打ち据えていましたね。その迫真の演技に、思わず涙した人もいるかと思います。記憶に残る名シーンの一つでした。

その感動に水を差すようで心苦しいのですが、「自責の杖」場面に、大事な要素が抜けていたことにお気付きでしょうか。一般の視聴者なら見過ごしてもいいのですが、いやしくも同志社人ならすぐそのことに気付いてほしいところです。おわかりになりましたか。それは新島襄伝では必ず襄が口にしている、

吉野山花待つころの朝な朝な心にかかる峰の白雲

歌が詠みあげられなかったことです。

この歌について、かつては単純に襄の自作と思われていたこともあったようです。また幕末の勤王の志士が詠じた歌と誤解されたこともありました。今では淀藩の佐河田昌俊(1579~1642)の歌だということがわかっています。昌俊(喜六)は小堀遠州や松花堂昭乗とも親しい近世初期の一流文化人でした。当然「吉野山」歌も有名で、後水尾院撰『集外三十六歌仙』(近代三十六歌仙)や緑亭川柳撰『秀雅百人一首』にも収録されています。川田順撰『戦国時代和歌集』(昭和18年刊)にも入っています。さらに興味深いことに、三代将軍徳川家光がこの歌を色紙にしたためており、その複製自筆色紙が名古屋にある徳川美術館のミュージアムショップで販売されていることまでわかりました。

もう一点、長い間誤解されていたのは、この歌の解釈についてです。その原因は歌の本文異同にありました。二句目が「花咲くころの」として引用されていたからです。「花咲く」と「花待つ」では、花の状態が異なっています。「花咲く」だともう花は咲いていることになりますが、「花待つ」だとまだ開花していないからです。そしてこの違いが、末尾の「白雲」の役割を大きく変容させることになりました(「白雲」を「白雪」としているものもありますが、それは明らかな間違いです)。開花している状態では、「白雲」は花を見たい人にとって花を隠す邪魔な存在というか障害になります。従来はこちらの解釈が通用していたようです。そこから「吉野山の花が散ってしまうことが気が気でないように、生徒達のことが気がかりでならない」と訳されていました。

ところが古典和歌の常套では、「白雲」は決して花見の邪魔をするものではなかったのです。花を隠すのは、「白雲」ではなく「霞」の役割だからです。むしろ「白雲」は、「待つ」と結びつくことによって、まだ咲いていない花と見間違うものとして歌に詠まれることが普通でした。つまり「白雲」は、花が咲いたのかと一瞬勘違いさせる存在であって、せっかくの花を隠す迷惑なものではなかったのです。まだ咲いていないのですから、当然散ることなどありえません。

これを本来の「待花」題で訳すと、「吉野山では花を待つころの毎朝毎朝、峰にかかる白雲を見て、花が咲いたのではないかと気にかかることよ(早く咲いてほしい)。」となります。これでは生徒のことを気にかけるたとえとしては使えそうもありませんね。

そうなるとこの歌の誤読は、襄自身が生徒達への訓戒のために、あえて「咲く」として意図的に解釈しているのでしょうか。それとも後世の同志社人が襄の心を汲んで、教師として理想的な解釈に仕立てたのでしょうか。

「八重の桜」でこの歌を詠みあげてほしかったな、と思うのは私だけではないはずです。

 


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