八重の看護談

2014/02/21

吉海 直人(日本語日本文学科 教授)

 

明治23年1月23日に最愛の夫襄を亡くした八重は、その年の4月に日本赤十字社の正会員になっています(年間3円以上の寄付が要件)。ここから日赤篤志看護婦としての八重の新たな活躍が始まるのです。

明治27年に日清戦争が勃発したことによって、篤志看護婦の存在はにわかに脚光を浴びることになります。八重は篤志看護婦人会京都支会の監督(取締役)として53人の看護婦を引き連れ、広島の陸軍予備病院で従軍活動を行いました。その八重の活躍を大島正満(みつ坊)は次のように回想しています。

時は過ぎて日清砲火に見(まみ)ゆる時がきた。なつかしい新島の小父さんを洛東若王子山腹に送ってしまった小母さんは、篤志看護婦として広島に活躍した。赤十字の徽章あざやかな雪の如き服をまとうた小母さんの写真を戴いて、早物心のついた満坊は、如何に胸を躍らせたことであらう。あああの胸に抱かれて眠る傷つける兵士の幸福さよ。  

  (『不定芽』9頁)

 

これを読むと、どうやら八重は正満のもとに篤志看護婦姿の自分の写真を送ったようです。ただし当時の正満は篤志看護婦の役割がよく理解できていなかったらしく、八重が看護婦として負傷兵を看護していると思っていたようです(それも間違いではないようですが)。

同じく日清戦争中の八重の活躍は、栗屋七郎「日本の黄鶯嬢―広島に於ける看護婦―」の中に、

他日人の妻母たらんとする女学生諸子は、何卒看護の片端なりと心得居られたし。嘗て京都市の篤志看護婦に於て月一回宛(ずつ)学習せし事ありしに、暫くして会員方の話を聞くに、皆家族の救護に大功ありしを感謝し居られたり。然れば一週間何度しても一年以上も修められなば、可也に役に立つ丈を学ばるべし。然して其効は実に一家の幸福児孫の健全を期すべし。願わくは全国の女学校が進んで斯学を科程中に入れられん事を。   

(女学雑誌407・1895年2月)

 

と出ています。八重は記者に向かって看護体験の重要性を述べ、全国の女学校の科目の中に看護学を導入してほしいと訴えています。これは現代の女子大学でも通用することではないでしょうか(同志社女子大学では看護学部の新設をめざしています)。

この八重の活躍は同志社の卒業生にも知れ渡っていたようです。そのため岡山支部の同窓会会員安部磯雄他28名は、連名で八重に激励の手紙を送っています(明治28年2月23日付)。そこには、

敬愛する貴下には昨年来御地に御出張一隊の看護婦を率ひて日夜国家の為め御尽砕之処、他之看護婦等とは雲泥之差ありて大に報国の御赤誠相現はれ、従て斯道の顕栄とも相成候由伝承仕り欣抃惜(きんべんお)く能はず。故先生在天の霊も御満足の儀と奉存候。

云々と、八重への称讃が長々と綴られています。具体的に他の看護婦とどのように異なっていたのかはわかりませんが、これによって同志社の中での八重の存在が重くなりつつあったことが察せられます。

日清戦争における篤志看護婦の活躍が認められた八重は、勲七等宝冠章という民間女性初の勲章を授かりました。そういった実践の中で、八重自身看護の重要性に目覚めたのでしょう。明治32年5月には日赤篤志看護婦会から看護学修業証を取得しています。それが認められたのか、翌年7月には篤志看護婦人会の看護学助教を委嘱されています。それに満足することなく、八重は明治35年10月には看護学補修科を学び、修業証を取得しています。八重の看護へのあくなき情熱が感じられます。

続いて10年後に日露戦争が勃発すると、八重は60歳の老齢ながら再び看護婦を引き連れて大阪の予備病院で従軍しています。その折、大阪毎日新聞の記者の取材に答えて「新島夫人の看護談」の中で、

先日も花を観に行かぬかと勧めて呉れる人がありましたが、傷病者の事を思ふと少しもそんな気は起りません。外へ出るならば只教会へ行って此人等の為に慰安を祈るより外の考えはありません。    

(「女学世界」5―8・1905年6月)

 

と述べています。花見に行く暇があったら、教会へ行って傷病者の慰安を祈りたいというのは、いかにもキリスト教信者らしい発言ですね。

 

※所属・役職は掲載時のものです。