八重と天野謙吉

2014/02/03

吉海 直人(日本語日本文学科 教授)

 

八重の資料を調べていて、「明日の夜は」歌の本文異同を気にしている天野兼吉という人がいたことがわかりました。それはたまたま「会津史談」51号(昭和53年5月)に掲載されている、相田泰三氏の「天野兼吉先生のお手紙」という短文を読んだことによります。

会津若松出身の天野氏は、京都大学医学部在学中に八重を訪ねたことがあるようです。訪問の目的は、「明日の夜は」歌の五句目の本文異同に関して、「残る」が正しいのか「残す」が正しいのか、八重に直接尋ねたかったからでした。それに対して八重は即座に、

「のこる」ではない「のこす」だ。「のこす」でなくてはだめだ。

と答えたそうです。その八重の気迫に、天野氏は「おばあさまはなかなか心臓だ」と思ったと書かれています。

この天野氏は京大在学中に京都会津会の学生幹事を務めたこともあって、その後もしばしば八重を訪ねたようですが、そのついでに八重から懐古談を聞いたようです。

おばあさまが、はた織りをしていると、白虎隊が来て、
「お八重さん、鉄砲を教えてくれ」
と、云うので白虎隊に鉄砲の打ち方を教えてやった。
又、籠城して負傷者の手当をしておったが、夜、女の姿ではいけないと云うので、男装して鉄砲打ちに行った。

これによれば白虎隊の伊東悌次郎のことや夜襲のことなど、八重は天野氏に対して得意の懐古談を語っていたことがわかります。それだけでなく、天野氏は当時の八重の家庭生活についても以下のように述べています。

おばあさまは、御所の東の同志社から少し離れたところにおられましたが、せいが高く、背程がまっすぐで、少しもとしよりくさいところがなく、元気でどうどうとしておられました。風間君と参上すると、少しも邪魔そうでなく、茶菓なんかいただいてゆっくりして来ました。お家は廊下が庭に面した周囲を通って、中に入るように出来ていたように記憶いたします。

元、少将の奥田重栄さまなどは、いつか「お八重さま」「お八重さま」と姉様を呼ぶように呼んでいられました。

お正月などは「ハッピー・ニューイアー」と英語で話しかけられておられました。

80歳を過ぎてなお八重の背が高いこと、正月に英語で挨拶していたことを含めて、これらは貴重な証言ではないでしょうか。なお文中の「風間君」とは、京都会津会の学生幹事を一緒につとめていた風間久彦氏のことです(別のコラムで触れています)。昭和5年4月19日に風間久彦宛に書かれた八重の手紙には、逆に天野氏が八重を訪ねて来てくれたことが記されていました。

さて肝心の本文異同ですが、当初、天野氏は「明日の夜は」歌の短冊を所有しており、それを根拠にどちらが正しいかを決定すると思っていました。しかしながら八重から書いてもらったのは「明日の夜は」歌ではなく、「数ならぬ」歌の短冊だったようです。

御大典の時御さかづきをいただきて

かづならぬ身もながら居て大君のめぐみの露にかかる嬉しさ

昭和三年十一月 新島八重子 八十四歳

と短冊を書いていただきました。

そのため最終的な判断としては、

私の記憶では、

あすよりはいづこの誰か眺むらんなれしおしろにのこす月影

だと思います。

と、資料ではなく記憶によって答えを出しています。「残す」はそれでいいとして、これによって初句が「明日の夜は」なのか「明日よりは」(『佳人之奇遇』本文)なのか、という新たな本文異同が浮上しています。ましてこのままだと、八重自身が「明日よりは」を正しいと主張していると誤解されかねません。しかし八重の書いたものの中に、「明日よりは」となっているものは見当たりません。

なお天野氏については、「会津史談」54号(昭和56年5月)に、五十嵐勇作氏が「天野兼吉先生を偲ぶ」という短文(弔文)を寄せています。それによれば明治37年に会津若松で生まれ、昭和54年6月15日に亡くなっていることがわかります。卒業後、長く医師として働かれたのみならず、昭和45年1月にはキリスト教の洗礼を受けているそうです。

同志社関係以外に、京都会津会関係者の中にもこういった八重についての証言が埋もれている可能性があるので、広く目配りすることが必要です。

 

※所属・役職は掲載時のものです。