八重のドレス姿は幻想か

2014/01/21

吉海 直人(日本語日本文学科 教授)

 

大河ドラマ「八重の桜」では、八重のドレス姿が目立っていましたね。それは八重がアメリカの生活を身につけた新島襄と結婚したことによるものです。実際に八重のドレス姿の写真が何枚も残っていることも、それを補強しています。時代の先取りをする八重ですから、他に先がけてドレスを着用していたとしても不思議はありません。

そのためでしょうか、ドラマでは襄との結婚式でも、八重(綾瀬はるか)に純白のウェディングドレスを着用させていました。その入手経路も、母佐久が女紅場のエバンス夫人から譲ってもらったと明かされていました。しかしながら襄との結婚式において、八重がウェディングドレスを着用したという証拠は見当たりません。それどころか、ドレスを着ていたという資料さえも微妙なのです。

出発点は「新島先生の洋式結婚式」という見出しで書かれた本間重慶氏の、

此時、新島夫人は靴を履かれて居たが、日本婦人が京都に於て洋装されたのは、又実に是が最初で、此席に連なった人々は誰も不思議さうに見て居られた。

(『創設期の同志社』182頁)

という回想記事です。ここに「洋装」とあります(「洋式結婚式」は衣装ではなく、キリスト教式の意味でしょう)。おそらくこれを根拠にして本井康博氏は、

八重は洋装(ドレス)でした。これもお手製に違いありません。そんなものを貸したり、売ったりする店なんて、京都では、どこにもありません。

(『ハンサムに生きる』16頁)

と述べています。「お手製」かどうかはさておき、「洋装」の具体例として、本間氏は「靴」を履いていたことしかあげていません。もちろん「洋装」とあるのですから、それを「ドレス」と解釈することも可能です。

それに対して私は、もし八重がドレス姿であったら、本間氏は靴のことよりもドレスのことを一番に書き留めるのではないかと考えています。ですから結婚式における八重のドレス姿は確定ではなく、今のところ一つの有力な説ということになります。

そもそも八重の基本的な日常着は着物でした。それは八重の結婚直後の写真を見れば明らかです。ドレス姿の写真は一枚もなく、すべて着物姿で写っているはずです。有名な徳富蘇峰の悪口を思い出して下さい。蘇峰は八重を称して「鵺のごとき女」と言っていましたね。その時も八重はドレスではありません。本体が着物(これが重要)で、頭に帽子・足に革靴という和洋折衷だからこそ「鵺」なのです。仮にドレスの上に帽子・革靴であれば、それは単なる洋装ですから「鵺」にはなりません。結婚式にしても、この恰好だったのかなと思っています。

それから10年後の明治20年の夏、八重は襄と一緒に北海道で保養しています。その際、会津の幼馴染み日向ユキと出会い、一緒に札幌の写真館で記念写真を撮影しています。それを見ると、二人とも着物姿で写っています。時を同じくして、八重は大島正健の長男正満(みつ坊)とも記念写真を撮っています。その時もやはり八重は着物でした。八重はドラマのような洋装で北海道を旅行していたのではなかったのです。

なおドレス姿の写真は、八重が40才を過ぎてからのもがほとんどです。そこで考えてみました。ドレス姿の写真が残っているからといって、日常もドレスを着用していたと言えるでしょうか。どうやら八重のドレス姿は、誕生日の記念などにわざわざ写真館で撮ったもののようなのです。しかも一度に何枚かの違ったポーズで撮影しているらしく、だからこそドレス姿の写真が多くなっているのです。

これはいわゆる成人式の晴れ着のようなものでしょう。写真を撮影するために、特別にドレスを着用しているとすれば、単純に残っている写真から普段もドレスだったと決め付けることはできません。なんとなく八重はドレスを常用していたように思われていますが、実は普段着は着物だったのです。襄の臨終場面を描いた久保田米僊の絵でも、八重は和服になっています。そして襄の死後、八重はドレスを着用していません。ドレスは、写真からの幻想ではないでしょうか。

 

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