篤志看護婦としての八重

2014/01/14

吉海 直人(日本語日本文学科 教授)

 

大河ドラマ「八重の桜」は、日清戦争における八重の篤志看護婦としての活躍を描いて終了しました。時を同じくして、同志社のサイト「新島八重と同志社」の「繋ぐ想い」に、竹内力雄氏が「新島八重の叙勲」を書かれています。そこには興味深い事実が記されているので、あらためて篤志看護婦について考えてみました。

八重は、日赤京都支部派出の救護班の看護婦53名の取締役でした。ただし当時の八重は、正規の看護婦の資格を有していません。そのため副取締に高木ハルと山室サタが任命されています。高木ハルは看護婦の資格を有していたので、実質的な看護業務は彼女主導で行われたようです。

八重一行は広島市内(仲町53番地)の8畳4間の民家を拠点にして、交替で救護に従事しています。その様子を取材した栗屋七郎は、

看護婦諸姉が三十時間の長き労働を終えて帰り、僅かに制服を脱して余力を養はるるところは実に合宿所の一室中なり。今日合宿所は二ヶ所に在りて、〈中略〉第二は此処を去る一町許の普通の住家にて、京都府より出張せられたる四十人の看護婦合宿せられ、新島八重子夫人之が取締を引受け居らる。此処も亦手狭の家にて八畳敷四間に四十人なればなかなか窮屈にして、                      

(「日本の黄鶯嬢」女学雑誌407)

と記しています(看護婦の人数にずれがあります)。

八重達が担当したのは、広島陸軍予備病院の第三分院でした。そこは戦争の負傷兵ばかりではなく、伝染病専用の隔離病棟も含まれていました(看護婦4名が伝染病に罹って死亡しています)。「八重の桜」では何の説明もなく、日本人負傷兵のみならず中国人負傷兵を看護していましたが、実際問題として伝染病棟で普通の負傷兵の看護を行うことはありません。そのことが説明不足だったようです。

なお同志社とかかわりの深い京都看病婦学校からも、5名の卒業生・2名の在学生が看護に従事しています。それについては『京都看病婦学校五十年史』に、

此年七月本邦清国と開戦し広島に陸軍豫備病院を設けらる。依て本校よりも卒業生五名生徒二名を十月某日を以て該地に派遣し豫備病院に従事せしむ。教師ミストーカツも数月の後彼地に赴き専ら豫備病院の患者を慰問せらるることとなれり。 

(29頁)

と記されています。ただし7名の名前はあげられていません。竹内氏は独自に調べられて、

大口(黛)清志(第4回卒)、早川くら(第7回卒)、岡本(淡路)たつ(第7回卒)、田中さだ(第7回卒)、小泉みき(第7回卒)、松本ちか(在学生・第9回卒)、東(楫野)たつ(在学生・第9回卒)

という7名全員の名前を特定されています。『京都看病婦学校五十年史』の卒業生名簿では、このうちの早川くらの存在が確認できませんが、『同志社百年史資料編一』所収の「看病婦学校卒業生氏名」を見ると、明治27年卒業生の中に名前が出ていました。

ついでながら、八重の看護婦姿の写真が多いと感じたことはありませんか。たとえ八重が無類の写真好きだとしても、救援の現場で個人的に撮影してもらったとは考えにくいですよね。そこで考えたのは、八重は日本赤十字社の広告塔を務めているのではないか、ということです。そもそも篤志看護婦人会というのは、単なる看護婦の団体ではありません。皇族・華族を中心とした上流階級の夫人達の団体です(看護婦資格の有無は不問)。要するに応分の寄付(年間3円)を納入した人だけが正会員になれるボランティア団体なのです。八重はその正社員になっているのですから、裏千家茶道と同様かなりの出費をしなければならなかったはずです。

その八重が担った役割が、日赤の知名度アップと看護婦の地位向上だったというわけです。皮肉なことに日清戦争における広島従軍は、まだ知名度の低かった日赤の存在をアピールするのには恰好の機会でした。その際、多少の知名度があり、しかも現場で看護婦を指導する立場の八重は、最適の広告塔たりえたのです。だからこそ八重は沢山の写真の被写体になっているのだし、進んで新聞雑誌等の取材を受けているのです。そういった活躍が認められて、民間女性初の勲七等宝冠章が八重に授与されたのだと思います(高木ハルは勲八等宝冠章)。

なお竹内氏によれば、

戦後の叙勲であるが、石黒忠悳(ただのり)は特別な思い入れがあり、普通なら看護婦取締は勲八等であるが、これではふさわしくない、として勲七等宝冠章にしたと伝えられている。

とのことです。石黒忠悳とは当時の陸軍省医務局長でした。この事実によっても、日赤の広告塔としての八重の役割が察せられます。その叙勲さえも、日赤の宣伝として十分効果的でした。

 


※所属・役職は掲載時のものです。