「山本家之墓所」について

2014/01/07

吉海 直人(日本語日本文学科 教授)
 

 

「八重の桜」に関連して、この2年の間に公私合わせて5度も会津若松を訪れ、八重ゆかりの地をめぐりました。大龍寺もその一つです。そこへ行ったのは、山本家の墓所にお参りするためでした。

1931年(昭和6年)9月、八重は故郷会津若松の大龍寺に「山本家之墓所」という立派な石碑を建立しています。その碑名は八重自身が書いたものを彫り込んだものです。既に80年も経過しているので、文字が風化してやや読みにくくなっていますが、石碑の裏には「昭和六年九月合葬山本権八女京都住新島八重子建之八十七才」と刻まれています。

誤解されているかもしれませんが、これは誰かのお墓というわけではありません。あくまで墓所であることを示す碑です。「合葬」というのは、山本家代々の墓を整理して一ヶ所に統合したという意味でしょう。その近くにある墓石を見ると、山本某と記されていることがわかります。ただしそこに八重の両親や兄弟の墓はありません。もちろん八重の墓もありません。

昭和6年というのは、八重が亡くなる1年前のことです。「八十七才」は数えであり、満85才でした。この時期、山本家は相続人が途絶えていたようです。兄覚馬も母佐久も、そして覚馬の娘みねも久栄も既に亡くなっています。唯一、みねの一人息子横井平馬が山本家を相続していましたが、その頃には亡くなっていたようです。

八重は新島へ嫁いだ身ですから、相続人の資格はありません。それにもかかわらず、「山本権八女」という肩書きで墓所を整理し、碑を建立しているのです。もはや八重以外に、山本家の墓守りをする人はいなかったのでしょう。おそらく自らの死期も自覚していたに違いありません。今元気なうちにやっておかなければ、この先山本家の墓は所在不明になってしまうか、あるいは散佚してしまう恐れがあります。八重自身、これ以後墓参りに来ることはもはやできないだろうと覚悟していたかもしれません。これは八重の万感の思いがこめられた石碑なのです。

もう一つ誤解されていることがあります。昭和6年9月に建立されたのだから、当然八重も9月に大龍寺に来ていると思われていることです。しかしながら八重の「病状経過並に臨終」(『追悼集Ⅴ』53頁)によれば、8月以来床に臥して一進一退の病状を繰り返していたことがわかります。新出の風間久彦宛10月7日付のハガキにも、

私事去ル八月中頃より少々気分悪敷く九月二日より二三日まで床に付、よふよふ看護婦も返し、先是にて丈夫に相成可申。

と記されていました。ですから9月に会津若松に行くことは到底不可能なのです。

そうなると9月は碑が完成した日であって、もっと以前、おそらく八重が会津若松を訪れた昭和5年5月に、建立の一切を依頼していたと考えた方が自然ではないでしょうか。日付を「九月」にしたのは、戊辰戦争のことが念頭にあったからでしょう。官軍との戦いに敗れ、鶴ヶ城を開城したのが慶応4年(明治元年)9月22日でした。その時、八重は「明日の夜は」歌を詠じているのですから、その日を忘れるはずはありません。山本家にとっても、父権八と弟三郎を失った忌まわしい戦です。

墓所を建立した翌年の6月、八重は86才で亡くなり、遺体は若王子の同志社墓地に埋葬されました。そこには覚馬はもとより、山本家の人々の墓も並んでいます。山本家が途絶えた後、墓は同志社によって守られていたのです。これまでは襄だけが墓参の対象でしたが、「八重の桜」によってこれからは八重や覚馬の墓にもお参りする人が増えることでしょう。

一方の大龍寺の墓所にしても、八重が無名だったこともあり、それ以降ほとんどお参りする人はいなかったようです。ところが「八重の桜」効果で俄に有名になり、多くの観光客がお参りに訪れるようになりました。八重が石碑を建立しておいたことで、所在不明になることを免れたからです。同志社女子大学食物研究会の学生達は、その墓所の横に記念樹としてしだれ梅の苗を植えました。その梅が花を咲かせる頃、もう一度訪れてみたいと思っています。

 

※所属・役職は掲載時のものです。