八重に関わる三人の内藤さん

2013/12/05

吉海 直人(日本語日本文学科 教授)

 

新島八重に関わりのある内藤さんというと、まっさきに思い浮かぶのは「内藤慎介」さんでしょう。彼はNHK大河ドラマ「八重の桜」の製作統括プロデューサーですから、今一番注目されている内藤さんということになります。それとは別に、最近脚光を浴びているのは、米沢藩士の「内藤新一郎」です。戊辰戦争敗戦後、八重の家族は米沢藩士の内藤新一郎宅へ「出稼ぎ」と称して避難していたことが資料的に明らかになったからです。家を失い、男手を失った八重たちにとって、彼は命の恩人だったと思われます。何故八重達が彼を頼ったかについては、彼が八重の夫川崎尚之助から砲術の手ほどきを受けていたことがわかったことで、ようやく両者のつながりが見えてきました。

さて3人目の内藤さんは誰でしょうか。これはかなりの八重通でもなかなか答えられないかもしれません。ではヒントを出します。八重の幼なじみ日向ユキと言えばどうでしょうか。そうです、日向ユキの夫はもと薩摩藩士の「内藤兼備(かねとも)」でした。襄は八重を通じてで面識をえた後、兼備と土地の購入などの手紙のやりとりをしています。しかしここで話題にしたいのは、兼備本人ではありません。その長男の「内藤一雄」の方です。

これまで内藤一雄については、一切話題になっていません。八重のことですら長い間放置されていたのですから、当然と言えば当然でしょう。八重が大河ドラマで俄に脚光を浴びるようになって、ようやく日向ユキ絡みで光が当たりました。ドラマでも、2人が20年ぶりで対面する場面に、ユキの子供としてちらっと登場していましたね。

私は彼について密かに注目し、著書の中に少しばかり触れておきました。その後、思わぬところで関連資料が見つかったのです。昨年の9月、同志社女子大学学生部主催の弾丸バスツアーで会津と安中を訪問した時のことです。群馬の新島学園を表敬訪問した際、学園収蔵資料紹介誌「夢故園花」をいただきました。何気なく頁をめくっていたところ、気になる記事に目が釘付けになりました。その4号に松本章男氏宛の八重の手紙が紹介されていたのです。

八重の手紙は明治24年7月5日に書かれたものですから、既に襄が亡くなって1年半後のものということになります(これまで襄に関係のない資料は軽視されることが多かったようです)。その内容は、ちょうど夏休みに入って同志社の生徒達がいなくなったことで、八重の寂しさが「大水之後之如にて誠に誠に一入(ひとしお)淋敷相成申候」と綴られています。その後のところに問題の一文があります。

小妹も早く何れには行度(たく)候得共、あにはからんや内藤氏之病にて立にたたれぬ羽ぬけ鳥、雲井ながめてなきあかす是もうき世のぎりならん。まづ当なつは宅之にかへにておくるつもりに御座候。

韻文調(道行き風)の遊び心が何とも言えませんね(「にかへ(二階)」は方言でしょうか)。この夏、八重もどこかに出かけたいのはやまやまですが、内藤氏が病気なのでどこにも行けず、自宅の二階で過ごす予定だと書いてあります。

ここに何の脈絡もなく唐突に「内藤氏」が出ているのですから、普通の人にはこれが誰だかわからないでしょう。安中の関係者でもなさそうということで、新島学園でも関心は示していないようです。しかしアンテナを張っていた私にとっては大発見でした。実は内藤氏のことは『追悼集Ⅰ』に、牧野寅次氏の「内藤一雄氏を悼む」(初出は「同志社文学雑誌」45号)として掲載されているのですが、これも今まで看過されてきたようです。

問題の内藤一雄は、明治24年の5月21日に突然病気にかかり、翌日同志社病院に入院。数日後に重体となり、医師から快復の望みなしと診断されたのを受けて、牧野氏は八重にその旨を報告しました。その後の経緯が以下のような筆致で記されています。

直ちに新島夫人の許に至り、電報を以て両親の許へ通知せんことを謀る。蓋(けだ)し夫人は一雄氏が母君の親友にして、氏が上京以来殊に病気中は第二の慈母たる労を執られたり。夫人輙(すなわ)ち電文を認め、予は之を受けて直ちに三条電信局に趣く途中、車上に手を拱(きょう)し、為めに思を廻らして北海の天に至らしむれば、嗚呼(ああ)内藤氏の家族夜半寝に就きて後、一声「電報」と叫ぶ配夫の声を聞くの時、母君の胸裡果して如何、執て其実を知らば其驚愕(きょうがく)更に如何。嗚呼此の一片の電報は今夜彼の家をして悲哀暗澹(あんたん)の淵に陥らしむべしと思凝りて情迫まれり。

ここに「蓋(けだ)し夫人は一雄氏が母君の親友にして、氏が上京以来殊に病気中は第二の慈母たる労を執られたり」とあることから、八重と母君・一雄親子の親しさが察せられます。ここから私は「母君」を日向ユキと推理したのです。記事はさらに続きます。

六月七日の夜十二時過ぎ、粼々たる車輪の響は病院の門前に止まれり。既にして一週の間少しも眠らざる眼に涙を含みたる慈母の慈顔は病児が瞳孔の中に写れり。此の一刹那の光景は霊活の筆にあらざれば決して写し能(あた)はざるべし。

電報を打ってから10日程経って、ようやくユキが北海道から駆け付けました。そうこうするうちに7月となり、暑中休暇のため同志社は閉鎖となります。このあたりが先の八重の手紙と合致する日時でしょう。その折、日向ユキも京都にいたことになります。母親の必死の看病の甲斐もなく、一雄は7月25日に死去しました。牧野氏は記事の末尾を、

一雄氏は薩摩の人、母は会津の人、北海道に生長し骨を京都に埋む、行年十八歳

と結んでいます。おそらく北海道での再会後、その縁でユキは長男を同志社に入学させたのでしょう。それにしても18歳の死は無念ですよね。八重とユキにしても、こんな形で再会するとは夢にも思わなかったはずです。

 

(注)ユキにはもう一人芳雄(一雄の弟)という息子がいました。長寿のユキは晩年、芳雄に昔語りを口述筆記させています。「万年青(おもと)」と題したその原稿は、後に八重との記念写真とともに会津若松の郷土史家・宮崎十三八氏に届けられたことで、「歴史春秋」9号に「ある明治女人の記録」として紹介されました。

 

※所属・役職は掲載時のものです。